2012-01-01から1年間の記事一覧
《異型接合体》をフェラーリは「逸話的音楽」と名付けた。つまりそれは、何かを物語っているのだが、それは「アネクドート」、「逸話」なのであって、大した話ではないのだ。日本語で「逸話」の「逸」は、「逸脱」の「逸」だと知ったら、リュックは手を叩い…
私が子供の頃、今みたいにビデオカメラなんかは庶民の家庭にはなかった。 当時8mmフィルムのカメラを持っていて自宅で上映会を開くことが出来るのはで裕福な家庭だった。クラスに一人くらいしか持ってなかった気がする。そんなドラえもんのスネ夫のような奴…
私が音に興味を持ったのは、恐らく2〜3歳の頃だと思う。 父親のクラシック・ギター、ビー玉が私のオモチャだった。 ギターの弦の上にビー玉を転がして、変な音がするのを楽しんでた。 父親はカセットテープレコーダーで私の声を録音してくれていた。 恐らく2…
《ほとんど何もない第二》は、「こうして夜は私の多重頭脳の中で続いて行く」という副題がついている。(余談だが、このタイトルはいつもアンリ・デュティユーの弦楽四重奏曲「こうして夜は」を思い出させる。何か関係がありそうだけど……。)これはまさしく…
同志社女子大学でのインスタレーションのチラシです。
私にとっては、だからまずフェラーリの「逸話的音楽」があって、そこから彼のさまざまなラジオへの取り組みを知るようになった。そして《ほとんど何もない第一 Presque rien no.1》については、当時はレコードも手に入らず、CDなどは存在せず、近藤譲氏もど…
ピエール・シェフェールは、ミュージック・コンクレートを「高級な」音楽にしたかった。そのためには「抽象的な」音楽である必要があったのだ。『音楽的オブジェ論』を書いて、ミュージック・コンクレートのソルフェージュを完成させたのも、そのせいだ。し…
ラジオ・ドラマからヘールシュピール、そして逸話的音楽へ。このような流れを考えることもできるだろう。というか、私自身のリュック・フェラーリ音楽体験がこのように繋がっているのだ。(正確には、逸話的音楽からヘールシュピールだけれども。)ヘールシ…
もちろん、それはドラマでなくてもよかったのだ。「きんどん」というものが流行っていたのも、この頃のことだ。ラジオでの投稿コントであり、ネタ自体も面白かったが、そこにさまざまにからむ音響がとても刺激的だった。そして、高音質のFM放送も最盛期であ…
ラジオ・ドラマの体験として、どのようなものをお持ちだろうか。ある一定年齢より以上の人であれば、中学生のころに、夜に布団の中で家の人に気付かれないように、ラジオに耳をすませた経験がないだろうか。それは、子どもの時代からの脱皮、青少年になりた…
Association Presque Rien 11,Cité Voltaire 75011 Paris FRANCE (フランス語、ドイツ語、または英語のみの受付です) プレスク・リヤン協会日本支局へのご連絡はメールにて受け付けております。 またTwitterアカウントをお持ちの方で短信の方はDMでもかまい…
このブログはAssociation Presque Rien (プレスク・リヤン協会)日本支局の公式ブログです。 プレスク・リヤン協会はパリに本部をおき、20世紀フランスの作曲家、リュック・フェラーリについてのすべての情報を収集、発信するとともに、リュック・フェラー…