リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

ラジオ・ドラマからヘールシュピールへ3(またはその逆)

《ほとんど何もない第二》は、「こうして夜は私の多重頭脳の中で続いて行く」という副題がついている。(余談だが、このタイトルはいつもアンリ・デュティユーの弦楽四重奏曲「こうして夜は」を思い出させる。何か関係がありそうだけど……。)これはまさしく、私の中学生の頃のラジオ・ドラマ体験を彷彿とさせるような設定で、夜の虫が鳴き続ける中、フェラーリと一人の女性(ブリュンヒルド)が郊外を歩いて行く、のである。そこには自動車の音が聞こえ、犬の遠吠えが聞こえ、何かの発見があり(虫?)、なぜだかわからないが、彼らはそこを彷徨っているのである。しかし、よく聴くと、この音響のドラマは巧妙に仕掛けられた「わな」だということがわかってくる。この常時聞こえている虫の音は何だかあやしい、余りに規則的、余りに同一なので、それが電子音であることが、だんだんとわかってくる。自動車の音、犬の遠吠えなど、いずれも巧妙にサンプリングされ、多重録音された仕掛けだ。そして、彼らの会話。これは、真実なのだろうか、あるいは「夢」?そういうことに気付き出した私たち、聴者がなんだか怪しいぞと自らに言い聞かせ出したとたん……。何かが起こるのである。非常に暴力的な圧倒的体験だ。そして、それもまた巧妙に仕組まれたフェラーリの罠なのだ。こうして、この音響体験は何重にも仕掛けられたわなで我々を取り巻いている、まさしく「多重な」頭脳、そしてその「頭脳」は最終的には「私の」もの、つまりはフェラーリのものなのだ。何と言うことだろう、このまるでお釈迦様の手の上であっちへ行ったり、こっちへ行ったり、千里もの道を觔斗雲で行き来する孫悟空のような感覚。私たちの想像力が、フェラーリの手の内で、行き来するのだ。(続く)(椎名亮輔)