Association Presque Rien (プレスク・リヤン協会)本部会長であり、作曲家、作詞家、作家、ラジオDJなど、精力的に活躍しておられたDavid Jisse(ダヴィッド・ジス)氏が、2020年7月18日、パリ市内でがんのために急逝されました。74歳でした。
ある意味、リュック・フェラーリの仕事の多様性のDNAを色濃く体現したともいえる人物であり、ご自身の芸術活動に近年より一層注目が集まってきていた中での、このあまりにも突然の訃報に、言葉もありません。
©️Olivier Garros
フランスでは彼を悼む声が続々とあがっているとのこと。
フランス国営ラジオ局France musiqueでも速報が流れ、また20日には追悼番組が放送される模様です。
ジス氏は1946年生まれ。シャンソンの作曲家、歌手としてデビューしました。
リュック・フェラーリとの関係性に絞って見てみれば、リュック・フェラーリが仕事場を置いていたロラン通りのアパートメントにジス氏が住んでいたことがきっかけとなって二人が親交を結びはじめたことは有名な話です。
1982年にリュック・フェラーリが“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)を立ち上げる際には、ジス氏もブリュンヒルド・フェラーリ、アンリ・フレス等とともに最年少の創設メンバーの一人として加わり、 Brise-Glace - Et Si Toute Entière Maintenant... / Jamais Plus Pareille (1988, CD) の音源採取の際にはリュック・フェラーリに代わって砕氷船に搭乗するなど、重要な役目を果たします。
1999年に“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)ディレクターに就任後は、定年で2013年に退任するまで、イベント<Extension>、 Concours Luc FERRARI(リュック・フェラーリ賞)を開始するなど、リュック・フェラーリの離脱後に迷走していた“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)の立て直しと方向性の確定に全力を傾注しました。
ブリュンヒルド・フェラーリが2006年にAssociation Presque Rien(プレスク・リヤン協会)を設立した際にも協力者の一人として、また2013年からは会長に就任し、Association Presque RienによるPrix Presque Rien (プレスク・リヤン賞)の審査委員長、オブザーバーなど、プレスク・リヤン協会の運営を底からしっかりと支えてきました。
最近では2020年2月4日にパリ市内で開催されたリュック・フェラーリ生誕90周年記念の最後を飾ったイベント、”Prix Presque Rien2019”のコンサートでも元気に司会をこなしておられたとのことです。
また、個人として近年ではラジオや舞台にむけ、アーティスト、オーガナイザーとしての仕事により精力的に取り組む一方、2018年にはシャンソンの作曲作品集2枚組< Intégrale >を発売するなど、その仕事がより注目を集めていて、またコロナ禍の後に向けての準備を進めておられた矢先、病魔はあまりにも早く彼を連れ去りました。
David Jisse(ダヴィッド・ジス)氏はリュック・フェラーリとブリュンヒルド・フェラーリの仕事を知る最重要人物の一人であり、また会長として、プレスク・リヤン協会を物心両面から支えてくださった人物です。
彼の作品が、これからもより多くの方に楽しんでもらえるように願うばかりです。
2017年4月28日、“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)で開催された<SOIRÉE DE LANCEMENT POUR LA SORTIE DU LIVRE DE LUC FERRARI>から、David Jisse(ダヴィッド・ジス)とWilfried Wendling(ヴィルフリード・ヴェンツレン)の二人のディレクターの共演。
シンポジウム「リュック・フェラーリと現実的なものによる作曲」(CDMCパリ)のお知らせ - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)
「フェラーリ地帯(ライン)」(第4回;“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会) ) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)
La Muse en Circuit(回路の詩神協会)のディレクター交代式 - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)