リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

リュック・フェラーリの「ダンボールからひとつぼし」(第10回:Murray PerahiaのBela Bartok(1981))

全国二万五千人超のリュック・フェラーリファンのみなさま、こんばんは。

 

さすらいのコーナー「リュック・フェラーリの『ダンボールからひとつぼし』」、今回はわたくし渡辺愛が担当を仰せつかりました。

フェラーリ自身が生前に買ったり貰ったりしたレコードたちを勝手に掘り出して思いを馳せちゃう、当ブログファンにはおなじみのコーナー。

さっそく彼の貴重なレコード・コレクションを覗いてみましょう。

意外?というか当然というか、クラシック系もかなり散見されますね。

それもそのはず、フェラーリは少年時代、音楽院でピアノを習ったり器楽のために作曲をしたりと、もともとはいわゆるクラシック音楽の勉強をしてきた人。

電子音楽のパイオニア的印象ですが、出自は古典的でアカデミックなんですよね。

 

というわけで、わたしが注目したのは

『Bela Bartok    Murray Perahia (Piano)』

 

f:id:presquerien:20180910161401j:plain

 

日本でも人気のピアニスト、マレイ・ペライアのピアノです。

今年来日の予定がありましたが、体調不良でキャンセルになったとか。早い回復をお祈りします。

 

収録曲はバルトーク。中でも注目はピアノ・ソナタ(1926)です。

実はこれ、フェラーリにとっては因縁の曲だったのです。

フェラーリは15歳から17歳までヴェルサイユの音楽院でピアノを専攻していました。当時そこでは近現代の音楽は理解されていなかったようで(無調やセリーの音楽など論外)、フェラーリは密かに練習していたバルトークソナタヴェルサイユの音楽院に持って行ったある日のことをこう振り返っています。

 

「それをクラスで弾いたのですが、恐ろしいことになりました。先生は私にこう言ったのです。『もし君がこんな象の音楽を引き続けるのだったら、ここにはもう来ないでいい』。そこで私はそこを後にしたのです。」

 

バルトーク1881年ハンガリー生まれの作曲家。と、改めて言うまでもないほど今では有名な、ある種の古典ともいうべき作曲家ですが、フェラーリ少年が音楽院に居た1945年前後はそんなバルトークでさえ先進的すぎて、田舎の音楽院では敬遠されていたのですね(ちなみにバルトークの没年は1945年)。

しかしバルトークは70年の時を経て、こんにちではしっかり伝統(クラシック)音楽の名匠として認識されています。

というのも私自身、フランスの「音楽院」で、卒業試験として課されたのがバルトークだったのです。

というわけで、今回は私がフランスの音楽院で体験したバルトークについてのあれこれをお話しします。

 

* * *

 

「卒試がバルトークだった」と書きましたが、私はピアノ科に居たわけではありません。

エクリチュール」というところにいて、バルトーク風のピアノ作品を書く(作曲する)、というのが試験内容でした。

エクリチュールとは直訳すると書法。この科目で勉強したのは簡単に言うとスタイル作曲で、バルトーク「っぽく」、モーツァルト「っぽく」といった風に、特定の作曲家の書法に則って曲を作る技術が問われました。

たんにフレーズをちょっと真似するという表面的な模倣ではなく、和声や対位法、楽器法や様式などを習得し、各作曲家が用いたそれらの技術の特徴を捉えて、自分でも書けるようにする、といったものです。作品や時代について深く理解するために、作曲家だけではなく演奏家や指揮者、音楽学者や教育者にも本来必要とされる学問だと思います。

私の在籍していた学校はパリ地方音楽院というところです(ちなみにヴェルサイユの音楽院も現在では「ヴェルサイユ地方音楽院」という「地域圏立」の音楽院となっていますが、フェラーリ少年が居た頃はまだヴェルサイユ市が運営する「市立」の学校でした)。

そこの高等課程でエクリチュール科は3つの項目を有していました。その項目とは 1. ルネサンスバロック 2.古典派・ロマン派 3. 20世紀の作曲、です。

2年間でこれらの項目について習得し、試験や提出課題を求められるのですが、年によってテーマ作曲家が違います。それで私が「3. 20世紀」の試験を受けた年がちょうど「バルトーク」と「リゲティ」がテーマの年だったのです。

リゲティ」は、ジョルジュ・リゲティのスタイルでホルンとヴァイオリンとピアノのトリオを書くという課題で、これは事前提出でよかったので家で楽譜を準備して出しました。クラスター(密集音群)を多用したので和音が細かくぶどうの房みたいになり、手書きがめちゃくちゃ面倒だったのを覚えています。似たような上昇音型の繰り返しも地獄みたいでした(なのに受付のお兄さんのミスで原譜を失くされたのは今でも恨みに思っています!)。

バルトーク」は実地試験でした。試験時間は12時間。この間、音楽院の小部屋に一人ずつ閉じ込められて、五線紙とひたすら格闘します。資料の持ち込みも不可。室内のピアノには鍵がかけられていて、使用できなくなっています。頭の中の知識とイメージだけを頼りに、当日指定されたモチーフ(メロディーの断片)をうまく絡めつつ楽譜を書いていきます。

とはいえ、毎週のレッスンで練習問題的にいくつも習作を重ねてきたので、それらをアレンジして組み合わせることは十分可能でした。

モード(旋法)を使ったフレーズ、パワーコードや半音をぶつけた和音、ブルガリアン・リズムなど特徴的な変拍子や、音価(音の長さ)をフィボナッチ数列を使って並べるなど、バルトークの様々なテクニックを実演を交えて教わるレッスンはいつも楽しく、終わってしまうのが寂しいくらいでした。家に帰って分析をしたり弾いたりする復習の時間も心休まるひとときでした。

ですから12時間試験は内容の心配よりも「途中でお腹すいたらどうしよう」とかの方が不安で(お弁当の持ち込みは当然可)、前日には日本から持ってきた酢飯の素でちらし寿司など作ってしまうはりきりぶり。途中のおやつ用お菓子もスーパーで真剣に吟味し(たしかボンヌママンのタルトにしました)、早目に床についたのになんだかソワソワして眠れない様はさながらピクニックのよう。

朝9時から夜9時までの試験はあっという間で、ある種の爽快感すら覚えながら駆け抜けました。

(終わってから牛丼の吉野家でも寄っていきたい気持ちでいっぱいでしたが、パリにはそんな素敵なものはないんですよね…)

 

後日公開審査がありました。受験者の曲をおそらくティーチングアシスタントのピアニストがかたっぱしから弾いていって、それを審査員たちが楽譜を見ながら審査する、というものです。

入ってきたピアニストが小柄で細く、頭がくりくりの巻き毛の男の子で、なんだか漫画みたいな人だったので(失礼)、ピアノの前に座った時は“え!?この子が弾くの!?”とびっくりしましたが、見事に初見で弾いてくれてさすがでした。

私の出した曲は変奏曲とロンド形式を複合させたような比較的情報量の多い大きな構造で、小節数は多い方だったと思います。ピアノ・ソナタというよりはミクロコスモスを参考にした作品でした。ピアニストのおかげでテンポ通りに曲は進み、無事単位を取得することができました。もう10年前の話です。めでたしめでたし。

 

 

f:id:presquerien:20180910161840j:plain

 

ご紹介した音盤の「ピアノ・ソナタ」は古典的な3楽章形式ですが、演奏は決してやさしくはありません。フェラーリは早くからピアノの才能があったのでしょう。

それにしてもフェラーリの先生はなぜ「象の音楽」などと言ったのでしょうね?低音を打楽器のように連打したり、民族的なリズムが使われたりするところかな?ぜひ、音源を聴いて確かめてみてくださいね。CDやダウンロード版でも入手できるようです。

それでは!

 

Piano Sonata: Great Performances

Piano Sonata: Great Performances

 

 

 

 

【関連過去記事】

「プレスク・リヤン賞2017で頂点に立った、柳沢耕吉ってどんな人?」 - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

リュック・フェラーリの「ダンボールからひとつぼし」(第9回:Michel Redolfi の Immersion / Pacific Tubular Waves (1980)) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)