全国二万五千人超のリュック・フェラーリファンのみなさま、こんばんは。
本日より月に一度の連載企画として「ヘールシュピールとは何か?」を全5回(予定)に渡ってお届けします。
ドイツで発生し、ヨーロッパに根強いファンを持つヘールシュピール( Hörspiel )について、ブリュンヒルド・フェラーリからの聞き書きにより、リュック・フェラーリのヘールシュピール作品の紹介を中心としてその歴史や概念をわかりやすくお届けしていきたいと思っています。
本日は、その歴史を振り返る前に予講として、まずヘールシュピールそのものについて考えていきます。
ヘールシュピールというドイツ語は日本語で直訳すると「聴く遊び」と訳され、英語では「ラジオ・アート」や「ラジオ・ドラマ」と言われています。
そこでまずこの「ラジオ・ドラマ」と「ヘールシュピール」という言い方について考えてみたいと思います。
この「ラジオドラマ」という言葉には、日本語ではさまざまな解釈が存在しているようなので、まず「『ヘールシュピール』をこのブログではどのように定義して扱うのか」という点について決めておきましょう。
巷で言われている定義や解説とは解釈が異なるかもしれませんが、今回の特集においてはこの言葉を次のように定義していきます。
「ラジオ・ドラマ」と書くと日本では「あ、『青春アドベンチャー』(NHK)みたいなものですか?」となりそうですが、今からここでは通常考えられている「ラジオ・ドラマ」よりさらに音に特化したものを指して「ヘールシュピール」と呼ぼうと思います。
つまり、「ヘールシュピール」あるいは「ラジオ・ドラマ」には2種類あって、ひとつは通常の放送番組、もうひとつはアート色の強い、より「音」に重きをおいたものがある、として考えてください。
そして今からこの連載企画では以降、「ヘールシュピール」と述べた場合には特に「ラジオ音響芸術作品」と訳しているものを指し、「ラジオ・ドラマ」と言った場合にはそれ以外の、一般に放送されているラジオ・ドラマと呼ばれているもの全般を指すことにします。
この違いについては、これからブログを読んでいただいている間にどんどんわかっていただけるようになると思うのですが、かなり雑になるのを覚悟の上で、簡単なたとえ話をしましょう。
例えば「怪奇大作戦」というテレビドラマの「京都買います」は実相寺昭雄が監督して撮られた作品です。このように日本でテレビドラマの監督を映画監督が務めることがあります。
これはテレビ局が制作したドラマ作品ですが、また同時に彼の作品でもあります。
製作費などのあれこれがあるものの、この作品が実相寺の監督作品であることに間違いはありません。
同じように、ラジオ・ドラマの監督を作曲家がつとめた場合、これはラジオ・ドラマでもありますが、同じく彼の作品としても成立することになります。
この「作曲家が監督した(音楽に重きを置いた)ラジオ・ドラマ」を通常のラジオ・ドラマと区別するために先程「ヘールシュピール」と呼ぶことにした訳ですが、実はこの相違については現在一般のドイツ人でも普段あまり区別していないようです。
その理由は日本と同じように放送局が増え、また放送されるプログラムも多彩になっているからだと考えられますし、もちろん放送される作品を聴かずに誰の作品なのか、よかったのか悪かったのかわかるものでもないので、普段は区別する必要もないようです。
ただ、ヨーロッパにおける「ラジオ」は一時の日本のようにテレビを補完するようなものとして考えられているものではなく、より独立した媒体として考えられているようですし、さらにいえば、現在も例えばドイツにおいてヘールシュピール作品は日常のプログラムとしてちゃんと放送されていて、色々な作曲家の作品がヘールシュピールとして放送されています。
ヨーロッパのラジオの聴取層は日本のラジオの聴取層と違い、より幅広く、広範囲で大人数にわたっており、ラジオが社会に持つ影響力も大きなものがあると言われています。
その理由はヨーロッパの地理的、歴史的、地政学的状況、またインフラの整備状況などの様々な諸条件が日本とは根本的に違うことがあり、さらにその諸条件がヨーロッパで「ラジオ」に独特の意味を与えてきたからであるともいえるでしょう。
この経緯はかなり面白いものだと思いますので、興味のある方はお調べになるといいと思いますが、今ここでは詳しく述べません。
今日はこの辺で、次回からはいよいよブリュンヒルド・フェラーリによる「ヘールシュピール」の歴史についてのお話が始まります。