私は1989年の4月から東大助手(フランス語科)として働くことになったので、しばらくはフランスともお別れであった。助手をしばらくやった後で、どこかの常勤の職を得るというのが、当時の普通のパターンだったのだが、それが、音楽学では何のポストもない、ということで、し方がない、フランス語でも教えながら音楽の研究を続けるか、と思ったりもしたし、そういう人も周りに結構いたりするわけで、例えば、前述の早稲田の笠羽さんも音楽科の教授ではなく、確か社会学部だか何だかの先生だったはずだ。しかし……、と思い返したりもするのであった、つまり、日本でフランス語を教えながら音楽を研究する、というのならば、フランスで日本語を教えながら音楽を研究するのだってアリじゃないか、って。またまた好都合なことに、パリの東洋語学校、いわゆるラングゾというのに、講師の口があったりしたのである(これは実際には頼み込んだ形でもあったが。誰にだったかなあ、その頃、守章さんがサバティカルに行っていたという話は書いたが、東大の先生が一年とかパリに行っている間に、いわばお小遣い稼ぎとして、東洋語学校で講師をすることが多かった。その頃は、多分竹内先生じゃなかったかな。その彼の紹介でもあっただろうか。)。というわけで、私は1992年の秋からまたまたパリ生活が始まるのである。この滞在の中で、フェラーリともっと身近に会うということになる。(続く)(椎名亮輔)