リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

リュック・フェラーリとは誰であったか〜開閉、遺伝子組み換えアーカイヴ、ほとんど何もない第二番から〜

渡辺愛です。2009年2月14日、東京・飯田橋の日仏学院でリュック・フェラーリの作品をいくつかアクースモニウム演奏しました。その際にプログラムに寄稿した文章を転載します。4年も前の文なので、ちょっと恥ずかしいところもありますが...。
なお、「ほとんど何もない第二番」についての解説部分は、CDの解説を日本語訳したものです。複数のスピーカーに、極めて密やかに出力することを心がけながら、全身を耳にしてこの曲に向き合ったことを覚えています。

リュック・フェラーリとは誰であったか。という問いに対してひとことで答えるのは難しい。彼は音を扱うひとりの創造者として、現実というものにひたすら誠実に、‘知性の職人’としての冒険を全うした。その結果、彼の選んだ手段・話法は極めて多岐に渡り、一見首尾一貫しないようにみえる枠組みの数々をいたずらっぽく笑いながら縦横無尽に生き抜いた人生となった。
器楽、電子音響とアクースマティックの作曲、テキスト、ルポタージュ、映画、ラジオ、シアターピース。セリー技法、ミュージック・コンクレート、ミクスト・メディア、偶然性の音楽…。多様な要素が繚乱した時代の真っただ中に居た事も手伝って、さまざまなものに手を出しては、鮮やかに離れていく。しかしこれが無秩序で興味本位の活動かと言えば、むしろその正反対である。
彼は真実に対して、ただ敬虔であった。そこに権力や教義や、中身のなさや、形式に対する思い込みや、哲学や欲望といった芸術の根幹をねじ曲げる論理、必然から生まれた矛盾をはじめに決めた概念で押し隠そうとする気配を感じるや、ためらいもなく前提をひっくり返し、新しいやり方を探しに出掛けていった。音楽家にとってこのような勇気を持つことは、本当らしいようでとても厳しいことである。しかしこのような姿勢こそが真のインテリ、真のモダニストと言えるのではなかろうか。
さて、フェラーリはどのようにして真実を探しに出掛けていったか。
まさに「扉を開けて」出て行ったのである。
『開閉』(1993)は、シリーズ「メトロポリス」のためのステレオ磁気テープの作品で、ケルンにて制作された。
車のドアの受け皿部分にマイクを仕込んで‘開閉’し、録音したものをスタジオで編集する。これが彼である!
自然音、それも風の音や海鳴りなど‘大自然の音’ばかりを集めたエコロジカルで現実離れしたサウンドスケープではなく、‘実社会の自然音’つまり車のクラクションや街のざわめきやモーターの音など、わたしたちを取り巻くすべての日常を注意深く聴取する。そしてそこに‘逸話 - Anecdote’を見いだす。この創作態度は極めて自伝的であり、抽象的であると同時に現実あるいは真実と自由に戯れる宣言であった。作曲家がまるで創造神の如く新しい論理と有り難い方法をはりぼてのように掲げる前に、世界は既にたくさんの物を語っていて、彼の頭のフィルターを通してそれが‘逸話’となって生まれ変わる。このような態度は同時代の他の作曲家と比べても、まったく例をみない精神であった。彼は扉を開けて出て行った。そのような旧態から。内から外へ。彼自身も言う、『扉は常に未知へと開かれる』。

『遺伝子組み換えアーカイヴ』(2000)は全6曲ある「概念の開拓」のひとつとして、アトリエ・ポストビリッヒで制作された。この頃彼は、彼の‘先駆者’としてのクロニクルを大学で講演して欲しいとのアメリカからの招待を受けた。そのため過去のアーカイヴを紐解かざるを得なくなり、このことをきっかけに出来たシリーズが「概念の開拓」である。この『遺伝子組み換えアーカイヴ』は、彼のその簡単には統括しがたい仕事を、彼自身が(結果的には生涯の最後の方で)振り返り、既に使ったシークエンスをあえて組み換え直して別の作品にしてしまおうという企てである。それも、全然違った組み立ての観点から。いわば遺伝子学的変化である。この恐れを知らない冒険者は、自分の打ち立ててきた概念すらも疑った。概念の不変性に疑いをかけたのだ。概念が錆びて単なる枠組みになってもなおそこにしがみつく時、人は馬鹿になる。彼はそこを一番恐れたのだ。
(文・渡辺愛)
 『ほとんど何もない 第二番 “こうして夜は私の多重頭脳の中で続いていく”』(1977-79)は、『ほとんど何もない 第一番 “あるいは海岸の夜明け”』からおよそ7年後の作品である。『ほとんど何もない 第一番』が、固定された音響イメージを主張した“現実よりも現実的”な作品だとすると、『ほとんど何もない 第二番』はあらゆる観点から非常に異なった作品である。
 第一に、マイクとテープレコーダーは固定されず、違ったサウンドスケープを作る要素を探しに歩き出している。第二に、フェラーリは彼の‘支援者’であるブリュンヒルド・メイヤー・フェラーリ夫人とともにあちこちさまよい、動き、ねらいを定め、その中でコメントを残して行く。たしかに、言葉は極力抑えられ、曲の魔力を壊さぬほどに、疑いようもなくひそやかである。にもかかわらず、聴き手は一人ぼっちになることはない。フェラーリはある種のガイド・ツアーに同伴してくれるし、そのさまようレコーダーの存在はまったく明瞭なのである。
それから、夜の風景ーコオロギ、夜鳥、鐘の音、犬の吠え声、虫たち等ーの音響が見受けられる長いシークエンスの後に、突然の変化が起こる。夜は知らずのうちに作曲家を捕らえてしまい、彼の頭の中へ道を作ってしまう。そののち、スタジオでの作業においてフェラーリは主観でもって突然雨を降らせ、彼の中の夜景の‘精神分析的な’側面におけるサウンドスケープに変換する。この幻影は悪夢のような雷雨の狂乱がピークに達するまで続き、電子音のビートはしつこく繰り返されていく。
詩的で自然な環境に浸ることは、暴力や私達を取り囲む戦争・不正から、ただ星の下のわずかにきらめく望みの時間だけ、逃れることができる。
 フェラーリはこの曲を完成させた時、これは公開するにはあまりに個人的すぎる作品だと考えた。約二年ののちに、この内密的な夜を日の目に見せない理由はどこにもないと思い直した。
そして私達は、別の所からやってきた価値ある音響を厳密に音楽的に施したこの作品に、徹頭徹尾心を打たれ、積み重ねられ、組織化されてゆくのである。
(訳・渡辺愛)