全国二万五千人超のリュック・フェラーリファンのみなさま、こんにちは。 世界中を襲ったコロナ禍が収まる気配もなく2021年が明けました。イベントのキャンセルもあちこちで聞かれる中、来たる2月6日(土)に東京オペラシティ・リサイタルホールでフェラーリのコンサートが敢行されるという吉報が飛び込んできました!アンサンブル・ノマドによる第71回定期演奏会、題して「ともに生きるvol.3 境界の彼方」。フェラーリと近藤譲という二人の個性的な巨星を大胆にプログラムした一晩です。ノマドといえば、フェラーリ来日時に「パリー東京ーパリ」を初演したり、過去にも定期演奏会でフェラーリの特集コンサートを組むなど、日本のフェラーリ受容を支える稀有なアンサンブル。来年には創立25周年を迎えるという現代音楽アンサンブルとしては異例の息の長さを誇る団体です。今回はノマドの音楽監督であり指揮者・ギタリストである佐藤紀雄さんのスペシャル・インタビューをお届けします。近藤譲さんとの伝説の活動「ムジカ・プラクティカ」の話やノマド結成秘話、フェラーリとの思い出や知られざる逸話など、縦横無尽にお伺いしました。それではどうぞ!
インタビュー目次
- ー 高橋悠治の「Und So Weiter」にビックリ! ー
- ー プラクティカを経てノマドへ ー
- ー ギターの師、そして友がぼくをつくった ー
- ー フェラーリとノマド ー
- ー コンサートプログラムで大切にしていること ー
- ー 荒木田さんと新作委嘱 ー
ー 高橋悠治の「Und So Weiter」にビックリ! ー
ーーーーまず、フェラーリとの出会いからお聞かせください。
たぶん70年代の頭のほうだと思うんだけど、ISCM(国際現代音楽協会)のコンサートで高橋悠治の弾いた「Und So Weiter」を聴いたのが初めてのフェラーリ体験でした。 当時は日本ではフェラーリなんてほぼ誰も知らない時代。 高橋悠治がツカツカツカって走るように袖から出てきて、もう座るか座らないかのうちに最初のあの爆音、一撃ですよ。大太鼓かなんかを使ってたんだよね。それをバンと鳴らして。 そっから先はもう、会場が凍りついたようになった。あそこに居た人たちは絶対忘れないと思うよ。あの一曲しか覚えていないし、ほかは何やったか全然覚えていないくらいの衝撃でした。
ーーーー資料によると、大阪万博でも高橋悠治さんが「Und So Weiter」を弾いて、そこに近藤譲さんも居合わせたようです。
(※近藤譲さんとフェラーリの関わりについては大里俊晴さんとの対談記事に詳述されています)
そうだったの。じゃあその頃だね。 ISCMのほうは日本に支部があって、ISCMで入賞した作品を日本で弾かなきゃいけないからそのリストの中に入っていて、多分悠治は事務局から弾くように頼まれたんだと思う。悠治が自分から名乗り出るわけがないので(笑)。 でも大阪万博のほうではおそらく悠治自身が取り上げたんだろうね。彼は早くからヨーロッパに行っていたから、きっと既にフェラーリを知っていて自ら選んだのかもしれない。わからないけど。
まあそれでフェラーリに興味を持って、「ほとんど何もない第一番」と「Music Promenade 音楽散歩」のレコードを手に入れてさんざん聴いたり、その後「ソシエテⅡ」とか…多分鈴木治行からカセットをもらったんだけど、それも衝撃で。とにかく機会があれば聴いていて、いつも頭の中にフェラーリがありました。だからアンサンブル・ノマドを始める際、ピアニストの中川賢一とうちで話してたんだけど、「Und So Weiter」のことも話したんだよね。彼は全く知らなかったんだけど、その時に「ソシエテⅡ」も聴かせて、将来ノマドでも演奏できたらいいねって言い合っていた。彼もすごくやりたがっていたし、実際その後何度もやってる。
「ソシエテⅡ そしてもしピアノが女性の身体だったら(1967)」
ーーーー中川賢一さんは井上郷子さんと並んで日本で一番フェラーリを取り上げているピアニストのお一人ですね。 その井上さんもですが、佐藤さんは近藤譲さんがかつて率いていたアンサンブル団体「ムジカ・プラクティカ」の創立メンバーです。80年代にフェラーリの作品を日本で演奏していたという非常に稀有な団体ですが、一体「ムジカ・プラクティカ」はどんな団体だったのでしょうか?新しい曲を見つけてきて演奏をするという趣旨だったようですが。
「ムジカ・プラクティカ」はアンサンブル・ノマドともちろん似ているところもあるのですが、一番大きな違いはとにかく「近藤譲のグループだ」ということです。 曲選びもプログラミングも全部彼がやる。それが一番大きな特徴です。
ーーーー80年代当時は他にそういう団体はあったのですか。
高橋アキとかが5人でやってたアンサンブルグループで「アーク」っていうのがあったね。ただこれは演奏家の団体だから、自分たちで演奏できるものをやるのと、自分たちの編成に合った曲を作曲家に委嘱する、という活動をしていた。 それから「ヴァン・ドリアン」というのもあったね。打楽器の吉原すみれさんとか菅原淳さんとかがやってた。そんなに頻繁にはコンサートをしていなかったと思うけど。だいたいね、あの頃はコンサートやるっていうのは今と違って大変だったの。一年に一回やるのがやっと。いろんな意味でね。そんな中で、プラクティカが作曲家である近藤譲をリーダーとしてやっていたというのは他とは全く違う性格を持っていたと思います。
ーーーープラクティカはどのくらい続いたんですか。
10年間ですね。その間は一年に1回はやっていたと思う。 その当時は作曲家がグループを作ってやるというのは世界的な潮流ではあったんです。例えばスティーブ・ライヒとかね。Steve Reichが自分がリーダーになって自分の作品を発表するというグループを作ったそのわけは、自分でグループを持たない限りああいう事はできないからなんですね。要するにものすごい量の練習をしなきゃいけないからさ、みんなに初めてのことをやらせるわけだから、そんなの頼んだってできるもんじゃない。 ヨーロッパなんかでも作曲家が主体になって自分のグループを持つということがありました。大きく言うと高橋悠治の水牛楽団なんかもそうでしょう。今みたいに演奏家が集まって面白いことをやろうよ、みたいなのとはちょっと次元が違っていました。そういう流れの中でプラクティカがあったんです。期間中は近藤譲の作品はほとんどプラクティカでやっていたと思います。近藤は現代音楽の理解には固定メンバーによる演奏の質の向上が欠かせないと思ってたんだ。
ーーーー演奏家の方々はどうやって集まったのでしょう。
演奏家はねぇ…知り合いを募ってやっていたんだけれど、それも当時と今とでは全然違いましたよ。今ほど演奏家はみんな現代音楽を普通のものとしてやってる時代じゃなかったわけよ。特別なことで、わけわからない音楽をやるという感じ。だけど技術はすごく必要だからさぁ、技術を持った人が集まってきたんだけれども、そういう人たちはオーケストラの奏者だったり、特にソルフェージュが強い人が多かったですね。 で、なんでそういう人たちが続いたかというと、これはやっぱり近藤譲の力というか。「なんだかわけわかんないけど面白い」っていう、近藤譲の魅力に引っ張られて、それで続いたということはあったね。
ーーーーそれが10年経って解散をしたのはなぜですか。
やはり一番大きいのは経済的な問題。続けられなかったのは明らかにそこが理由です。これ以上は無理だ、ってね。だってさ、ひどいときには客席よりも舞台上のほうが人数が多かったんだから。まあお客さんがいっぱいになったからって経済的に成り立たないけれど、でも少なくとも意欲っていうもんがあるじゃない。今とは全然違いましたよ。
ー プラクティカを経てノマドへ ー
ーーーー佐藤さんの「アンサンブル・ノマド」はプラクティカの後継のような形で創立されたんですか?
それが全く関係ないの。だいいち、プラクティカの解散からノマド結成までもずいぶんかかってるし。 ただ、その間に演奏家の状況と経済的な状況が変わったんです。
まず演奏家との出会い。 僕が「もう一度アンサンブルをやりたいな」と思ったきっかけがあったの。それは今のメンバー達と出会ったこと。あるとき日本音楽コンクールの作曲部門の室内楽の最終審査で僕が指揮を頼まれたんですよ。
ーーーーかつて日本音コンの作曲部門は演奏審査会というのがありましたね。
今もう(演奏審査は)なくなっちゃったけどね。それで事務局の集めた演奏家たちと出会うことになるんだけど、みんな現代音楽に対して全然特殊な感情がなく普通に興味を持っていることに驚いて。しかもみんなすごい能力だし。 望月京とか原田敬子とかが入賞していた頃ですけど、もう見たことない譜面がくるわけ。微分音とか四分音とかが含まれた複雑な譜面を見て、これやんのかぁ、できるかなあと思いながら合わせたら、木ノ脇道元とか菊地秀夫とかがもう初めからちゃんとできちゃう。「なんだこいつらは!?」と思って。で、やっぱり現代音楽もちゃんとやるとこんなに説得力もあって、誰が聞いても面白いものになるんだと思った。それが何年か続いて、今のノマドのメンバーが固まったっていうのは大きいですね。もちろんプラクティカの経験があったっていうのはすごく大きいですけど。
ーーーー若い世代の優秀な演奏家と巡り合ったということですね。では、経済的には?
実はノマドは東京オペラシティのレジデンスアンサンブルだったんです。初台にオペラシティというホールができる、そこの芸術監督を武満徹が務めて、いま各地のプロデューサーを集めていろいろ構想を練っているって聞いて、ちょうどその頃武満さんと仕事をしていたころだったので、こういうのやりませんかって言ってみたら、それやりましょうよって言ってくれて。ホールのできる一年前くらい(1995年)でしたかね。それで幸運にもホールのレジデンスとしてノマドが発足して、オペラシティの予算で高いリハーサル室も使い放題、打楽器なんかも使い放題という幸福な時期が2年くらい続きました。環境が整ったということですね。
ーーーーホールお抱えの現代音楽アンサンブルなんて夢のような話ですね。
タイミングって大事ね。武満さんは早すぎたよ、亡くなるのが。ホールができた年(1996年)に亡くなってしまったから。プラクティカの活動も時代的にちょっと早すぎたね。今だったらさ、「近藤譲が演奏家のグループを作る」なんて話になったらそれはもうすごい話題になって、演奏家たちもみんな我も我もって思うだろうしさ。でもあの頃はもう、ゼロ。お客さんもいないし、理解あるプロデューサーも少なかったんです。
ーーーーオペラシティのレジデンスが終わってからは自主集団として続けてこられたわけですか。
バブル崩壊以降景気も悪くなってきて、オペラシティのほうも経済的にちょっと苦しくなってきてね。でも、ありがたいことに自主集団になってからも今までノマドが続いてきたのは、経済的なバックアップがあって、そこはもう絶対条件なので、ラッキーなことだったなと思います。今のところはまだもっていますよ。
活動開始以来、常に拠点となっているオペラシティ・リサイタルホール。
ー ギターの師、そして友がぼくをつくった ー
ーーーー指揮のお話が出ましたが、佐藤さんご自身の音楽歴についてもお伺いしたいです。
指揮はねえ、もう勉強したこともないし習ったこともないし、大体僕は音大も行ってないよ。ギターはね、始めたのは中学校か小学校位の時に家にギターがあって、兄弟でポロンポロンって「禁じられた遊び」とか弾いて、いいなぁっていう、そんなレベル。ただね、ギターを習いに行ったんだけど、習いに行った先がちょっと面白いところだったのね。 当時はギター科なんて日本の音大のどこにもなくて、みんな趣味でやっているような時代だったんですけど、僕のギターの先生は小原安正さんといって日本で初めてスペインに留学した世代の先生でした。早稲田大学で学んでいたりしてとても教養のある先生だったんだけど、小原先生が「これからはね、新しい作品をもっとやんなきゃダメ」って言うの。普通はクラシックギターなんて「もっときれいな音で」なんて言われるもんなんだけど、その先生だけは「もっと新しい作曲家に委嘱をして、新しい曲をやりなさい」っていう、そういう先生だった。 当時習いに来ていた他の連中も面白い人が多くて、影響されましたね。荘村清志とかは一緒でしたけど、だいたいの門下生はギターは趣味で、他に専門を持っている人が多かった。文学好きだったり、哲学が好きなやつとかと集まってニーチェの話をしたりね。読書家が多かったですね。田代櫂っていうのがその後ギターでドイツ留学をしたんだけど、帰ってから物書きになりましたよ。音楽書を6冊くらい出してる。 そんなことも、今の僕を作った一つの環境ですね。新しいことにすごく興味がありました。
ーーーープラクティカで指揮をされることになった経緯は?
近藤さんから頼まれました、棒振ってよって。プラクティカには他にも指揮者いたんだけどね。経験はなかったけど、その時に思ったのは「ギターを弾くように指揮をすればみんなわかるんだな」と。一緒にアンサンブルするっていうかね。そういうつもりでやっていました。
ーーーーそれがノマドでの指揮にもつながっていくわけですね。
ー フェラーリとノマド ー
ーーーーフェラーリとのお話もそろそろ聞きたいです。2003年にフェラーリの来日コンサートで初演をされていますね。
「TangoーPas」と「Chansons pour le corps 身体のための歌」、「Porte ouverte sur ville 街に開かれた扉」、そして「パリー東京ーパリ」というプログラムでした。「パリー東京ーパリ」は「新しい世代の芸術祭」による委嘱で、ノマドを想定してノマドのために書いてもらった曲です。
ーーーー楽譜をご覧になったとき、どうでしたか?
まずタイトルにえらく感心しました。「パリー東京ーパリ」、なるほどなぁうまいタイトルつけるなぁ、と。前年の来日時に東京の街をいろいろ録音してって、それをパリに持ち帰って編集し、東京で初演をするという、その過程を踏まえてのタイトルでしょ?面白いよね。譜面のほうは結構難しいのよ。それだけにやりがいがあって面白かった。東京の風物詩を告げるような音源が鳴っていたりとか。
ーーーーテープとのシンクロはどういう風にしていたんですか?
それはちょっと不可思議なところがあって、どこまでシンクロさせるのかっていうのがわからないところがあったんです。フェラーリが居る時(リハーサルなど)にいろいろ聞くんだけども、「そこはそんなに問題じゃない」みたいなことを言うのよ。「(でもここは明らかに何か合わせるべきじゃないのかなあ…)」と思ったんだけど…まぁでももう独立したものっていうふうに言ってたよね。テープのところもパルスがあるところは気持ち悪いから合わせちゃったりするんだけど、合わせたからってダメとも言わないし、その辺は割と緩かった。だからテープパートも器楽のパートの一部のように固定されていて、どっちかがどっちかに合わせるっていうんではなくて同時に進んでいくものとだと思っていた節があります。「ここはシンクロすると面白いな」っていうところは狙っちゃったりするんだけど、それはそれでいいみたい。そういうポイントであんまり注意もされたことなくて、ダメ出しの言葉はあんまり覚えてないですね。
ーーーー音がその瞬間に出会うというか、その出会いを楽しむというか、そういう余裕のある人だと思うんですけれども。
彼のやったことは「状況を作る」こと。例えば演奏家にある状況っていう、いわば宿命を与える。演奏家はそれにしたがうわけだけど、指示はするけどその結果は厳格に問わないというような、ちょっと突き放したところが彼にはすごくあるなと思う。それは他の作曲家と違う面白いところ。楽譜があってもそれは指示書みたいなもので、演奏家がしたがった結果がどうなるかは未知数で、それをできたものとして受け取るという、特有の突っぱね方というのが面白いんです。
ーーーールールを設定してある程度自由にやらせるっていうのは他の作曲家もやることだと思いますけれども、完全に偶然に任せてやればいいって問題でもないし、ルールを与えた結果の音楽が何かを映し表すものであるということもなくて。「場を面白がる」というのがユニークですね。
弾く人にも聴く人にも「機会を与えてくれる」。そういう意味では近藤作品とは対照的ですね。ただ近藤譲との共通点があるとすれば、どちらも「体験」が元になっている。「音の体験」。近藤さんもすべて彼が体験したことに基づいていて、耳で聞いたものが音になっている。フェラーリも彼の肉体を通じた体験が元になっている、肉感的と言ってもいいかな。それは根底でつながっていると思います。
ーーーー2009年にもフェラーリを特集したコンサートをされていますね。
「Didascalie 2 ou Trois personnages en quête de notes ディダスカリー2 」と「パリ−東京−パリ」、「A la recherche du rythme perdu 失われたリズムを求めて」ね。ノマドの木ノ脇道元がフェラーリがすごく好きで、フェラーリをテーマにした曲を書いたりもした。そのコンサートはすごくよく覚えています。なぜかというと、今ノマドのコンサートは年間テーマとサブテーマの二つがあるんですが、それを始めたのがこのコンサートが最初だったの。ロームミュージックファンデーションの助成金を取るときに、年に三回コンサートをやるんだったら年間を通じた一貫したテーマがないとダメって言われて、それで焦って思いついたのが「時代を創造するパイオニアたち」。フェラーリにぴったりでしょう? ちなみに今年度のテーマは「ともに生きる」。コロナが起こるずっと前に決めたテーマだけど、奇しくもぴったりになっちゃった。
ーーーー年間テーマを決めるのも音楽監督の仕事なんですね。選曲をしたりプログラム順を考えたりするうえでのこだわりなどはありますか?
ノマドは固定メンバーはいますが、その編成の中でできる作品ということには縛られず、毎回ゲストを呼んでは割と大きい編成でやってます。 重要視しているのは「流れ」かな。 ある作品があって、それが1曲だけ演奏されるってことはまずないじゃない。 必ず前後がある。それが先頭に来たら、その次に何がくるかで全然違う。演奏する方も聞く方も全然違っちゃうんです。そういう意識を積極的に持ってプログラムを決めたほうが、絶対面白いものになる。 いつもやってて邪魔だなと思うのは「拍手」。
ーーーー(笑)お客さんの拍手ですか。でもわかる気がします。
区切られちゃうのがね、あれいらないんだけどなぁって思う(笑)。 だってせっかく終わって次に始まるって思ってるのに。 だから拍手が絶対起こらないように、全部アタッカで入るようなプログラムの作り方も何度かやってますね。 それでいうと、本当は演奏会の最中ずっと全ての演奏家が舞台上に居たほうがよい。発表会みたいにさ、演奏が終わって引っ込んで、また次の出番まで舞台袖に待機してるってなると、お客さんと分断されちゃうんだよね。お客さんはずっと舞台見てて、一続きの時間を体験してるわけだから。
ーーーー私ごとですが、2019年にフェラーリ生誕90周年のライブをやりまして、その時に「Tautologos ⅢトートロゴスⅢ」を一晩で2回演奏したんです。演奏者は変わらなかったのに前後でまったく結果は変わりました。お客さんと同じ時間が共有できていたと思います。
それ、メンバーチェンジをしないで2回やったんでしょ?それが大事なんだよね。同じメンバーで同じ舞台で何が起こるのか、っていうのがポイントだよ。 渡辺さんがYouTubeで発表してたリモート演奏も面白かったよ。
ーーーーありがとうございます!
Remote Logos performs Luc Ferrari's Tautologos Ⅲ
筆者らの行ったリモートによるトートロゴスⅢ。イタリアー長野ー東京で同時演奏をした。
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ー コンサートプログラムで大切にしていること ー
ーーーー「トートロゴスⅢ」の話題が出たところで来週のコンサートの話に移っていきたいところなんですが、佐藤さんは実はムジカ・プラクティカ時代に「トートロゴスⅢ」を演奏されているんですよね。その時のことは覚えていますか。
器楽バージョンのほうね。覚えているけど、どうやって演奏したのかはあまり覚えていないんだよね…。「トートロゴスⅢ」の器楽バージョンは一見シンプルな譜面なんだけど、メトロノームの記号が各々についていて、全員が違うテンポで進むっていう、実はすごく難しい曲。フェラーリはノートの中で小さなメトロノームやストップウォッチを用意して…と書いているんだけど、どうやってやったんだろうなぁ当時は…。多分せーので頭を合わせて、あとは自分の信じるテンポでやっていたんだと思うんだけど。今は時代が進みましたので、今回は磯部英彬さんにクリックのシステムを作ってもらいまして、それで演奏する予定です。だから正確に実現できると思います。とはいえ「結果はやってみるまでわかりません」と今回プログラムノートにも書いたんだけど(笑)
ーーーー「ムジカ・プラクティカ」ではフェラーリの「interrupteur スイッチ、十楽器のための」も演奏されたとか。
「スイッチ」ですね。この楽譜は確か武満徹さんからもらったんですよ。 武満さんはああいう代表的な人だから、世界中から楽譜が送られてくるわけ。その中でこんなのがある、もっていっていいよと言われて、面白そうなものを手元にもってきた、そのうちの一つに「スイッチ」がありました。 これもすごい曲だよね。「ソシエテⅡ」と書き方が似ている。「ソシエテⅡ」も器楽のみの曲でテープは使わないんだけど、いかにもテープ音楽のような器楽曲。とても抽象的で、音のつながりなどがまるでテープ音楽を聴くかのような……それからハサミですぱっと切ったような曲の移り変わり。断絶(interrupteur)って言う位ですからね。瞬時にしてテープを切ったり貼ったりするような、それを器楽でやったような感じの音楽で、それもすごく面白かったです。
ーーーー今回は「トートロゴスⅢ」を「シカゴバージョン(1969/2001)」と「器楽バージョン(1970)」の2バージョンで演奏されます。先ほどの「流れ」の話でいうと、今回のプログラムは悩まれましたか?
これはほとんど悩まなかったね。 実は当初の予定では「フェラーリ+近藤+ブーレーズ」というプログラムだったんです。フェラーリとブーレーズの関係というのはご存知だと思うけど、でもね、生前フェラーリに「フェラーリとブーレーズのコンサートがやりたいんだよ」って僕が言ったらフェラーリは大喜びして「最高だね!」って言ったの。だから初志貫徹したかったんだけど、ブーレーズを歌ってくれる予定だった歌手がコロナ禍でどうしても来日できなくなってしまって。それで近藤譲とのマッチングでできる曲を探しました。
「パリ−東京−パリ」は何度もやっているから違う曲で…と思った時にYouTubeで渡辺さんたちのシカゴバージョンを観て、あれも面白いなと思って、器楽バージョンともまた全然違うけれど両方ともすごくフェラーリらしい作品だから、2つやろうと。それはすぐに決まりました。 近藤作品はね、ブーレーズをやろうとしていた時に頼んでいた打楽器奏者が三人いて、せっかくだからキャンセルしないで打楽器三人でできる近藤さんの曲をやろうと。「ラスターは彼女に帽子を渡し、そして彼とベンは裏庭を横切っていった」という作品だけど、譜面を見た時から「これちょうだい!」って気に入って、誰かやらないかなーと思って待っていたんだけど、誰もやらないの。
ーーーー結構昔の作品ですよね。そんなに難曲なんですか。
そう。一度だけアメリカで学生がやったみたいなんだけど、全部オクターブで両手でやるのがあまりにも難しいので六人で分けてやったんだって。 でもすごく楽しい曲なのよ。リズミカルでダンサブルで、近藤さん特有のホケットが散りばめられていて。この機会にぜひ三人の打楽器奏者に頑張ってもらおう、と。めちゃくちゃ楽しみ。
ーーーートップバッターも近藤作品ですか?
冒頭は小さな軽い曲で始めたいと思っていたから、近藤さんのフルートとギターのデュオで始める。これもすぐ決まりました。可愛らしい曲でスタートして、その後にあの「トートロゴス3」をぶちかます。面白くないですか?そんなふうにして決まっていくの。 プログラムの最後は実は一番最初に決まっていた。「荒木田隆子基金で近藤さんに委嘱をする」っていうのはずいぶん前に決まっていたのね。ノマドの編成で書き下ろしてもらいました。世界初演になります。
ー 荒木田さんと新作委嘱 ー
ーーーー荒木田隆子基金とはなんですか?
荒木田さんはね、うちのお隣さんだったの。 ここに引っ越してから30年以上経ちますが、ちょっと遅れて荒木田さんも引っ越してきた。それ以来ずっと隣で。お母様とお二人暮らしでしたが特に交流もなくて、道であれば会釈する、その程度の関係。 でもちょっと只者でない感じがしていたの。まず赤坂から越してきたっていうのにもびっくりしたんだけど、新築で建てられたお隣のおうちが今時珍しい純和風の家。それから時々お三味線が聞こえてきたり、DVDか何かで歌舞伎を大きな音量で流していたり、いつも夕方になるとおいしそうな出汁の匂いがして、そういう高貴な風情っていうのかな、一体どういうお家なんだろうって家族で噂してたんだ(笑)。
それで数年前にお母様がお亡くなりになって、お焼香しに御宅へ上げてもらって、そこで初めて話すようになった。やっぱりこっちが噂話してりゃ、向こうだってしてるわけよね(笑)「佐藤さんは音楽やっていらっしゃるようだけども…」なんて言われて(笑)。「佐藤さんがやってるような音楽、私が行っても分かんないかもしれないけど一回でいいから行ってみたいわあ」って言うわけ。それで一回お誘いしたら、ノマドのコンサートを聴きに来た。 そうしたら「いやー面白かったわー」って言って、それからずーっと来るようになったの。ノマドの定期もそうだし、僕のギターの演奏会とか朗読の会とかも全部。終わってから感想のメールをくれるんだけど、それがまた素晴らしくて…聞けば児童文学の編集なんかをやっていたそうで、文学畑の方だった。素晴らしい文章でした。 最後は癌になられて、入院先の聖路加病院から車でノマドのコンサートに来てくれたりしたんですが、十日後くらいに亡くなってしまいました。
ーーーーそれは残念でしたね。
残念でした。それである日、突然会計事務所から一通の手紙がきて「ちょっとお会いしたい」というの。 そしたら「荒木田さんがアンサンブル・ノマドに遺産の一部を寄付したいそうなので、受け取ってください」と言うではありませんか。 本当にびっくりした。こんなことってあるの?って。
それで彼女が残してくれたお金をどのように使っていこうかなと思った時に、今までノマドは委嘱っていうのを一回もやってこなかったことに気づいたんです。
ーーーー意外ですね。
というのはね、ノマドは演奏したい作品を演奏する団体だったから。知らない作品を演奏したいかどうかわかんないじゃない。だから単純にそれだけだったんだけれども。 でもせっかくいただいたこのお金を何か特別なことに使いたいなと思った時に今までやってなかった委嘱をしたいなと。「この人の作品は演奏したいな」って思う作曲家に委嘱することは自分たちの意思とあまり離れてないんじゃないか、ということで、20曲位委嘱をしました。フェラーリが生きていればフェラーリにも委嘱できたんだけどね。
ーーーーそろそろお別れのお時間となりました。 とにかく目下は2月6日のコンサートの成功をお祈りするとして、その後の予定などありましたらお聞かせください。
2022年度がノマドの25周年にあたるんですが、その時にまとめて今までの委嘱作品を演奏する予定です。前回は渡辺裕紀子さん、権代敦彦さん、岸野末利加さん、坂田直樹さんもやった。今回が近藤譲で、来年は他の人たちもまとめて。楽しみにしていてください。
ーーーー今日はどうもありがとうございました。
第70回定期演奏会での委嘱作品「都市と記憶」。渡辺裕紀子作曲。
(インタビュー / 文:渡辺 愛 (作曲家)、2021年1月14日 zoomにてインタビュー)
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