リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

リュック・フェラーリ、ヘールシュピールについて語る

リュック・フェラーリ自身がヘールシュピールについて語ったインタビュー。(ジャクリーヌ・コー『リュック・フェラーリとほとんど何もない』より。)

J・コー「どのように作曲家はラジオのための仕事をするのですか、そしてそれは、独立した作品として考えることができるのですか?」
L・フェラーリ「比較的簡単なことですよ。ドイツのラジオ局のヘルシュピーレ担当の部署がその冒険に参加してくれと私にコンタクトを取って来たのです。映画の世界に浸かっていたおかげで、私はシナリオとはどのようなものかを知っていたので、ラジオのためにそれを書きました。これらのシナリオは音楽作品とは異なっていましたが、でもそれほど懸け離れたものではありませんでした。オーケストラとか抽象的な電子音を扱う代わりに、様々な状況を扱い、音響の構成=作曲(コンポジシオン)をしようと思ったのです。」

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J・C・「ヘルシュピールには興味深い新しい要素があります、それは、言葉の使用です。」
L・F・「実際ヘルシュピールは私にとっては、言語の実験場でした、なぜなら、言語とはラジオの素材ですから。言語を扱うこと、これは私には新しいことだった。言葉で実験をすること、たまたま捉えた声のオブジェを扱うこと、これが大変気に入りました。そのようなオブジェとは、例えば、会話、声の即興、オノマトペ、ヴォカリーズ……でした。テクストの録音が提起する問題を解決するのが好きでした。例えば、どのように読ませたら良いか、ついでどのように環境音の中にそれを配置したら良いか?
 ヘルシュピールはドイツのものなので、自分の言葉とは違う言語で仕事をすることを余儀なくされました。それで、この言語の理解という問題を解決しなければなりませんでした。どのように人は声のメロディーを通して言葉を理解するのか、一つの文章を全部明らかにするようないくつかの単語から出発して、理解可能になるには最小限どのようなものが必要か?これらの実験領域に対して、ヘルシュピールでアプローチするのが面白かったのです。」
J・C・「しかし、形式としては、電子音響音楽と全く同じように扱われていますね。」
L・F・「それらが似ているということは、どちらの場合も構成=作曲(コンポジシオン)ということが問題になっている点にあるのだと言えるでしょう。音の配置や変形についての同様の問題系、作曲家として同様の仕事、があるのです。しかし、ヘルシュピールにおいては、はっきりした物語があるのですが、というのもそれは筋書きとかシナリオに従っているからですが、コンサート用の電子音楽に物語があるとしても、それはもっと大幅に隠されたものになっています。

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J・C・「あなたとヌーヴェル・ヴァーグ映画との関係は?そのカメラ万年筆、カメラ・ヴェリテの使用とは?」
L・F・「1960年から、つまりヌーヴェル・ヴァーグの時代、特にリーコックの周囲にシネマ・ヴェリテがあり、それは、三脚を使わないで済むポータブル・カメラの発明と、コードなしで済むポータブル・ナグラ[録音機]の発明と結び付いていました。これらの映画監督達は、理論的意志を持ってカメラ万年筆を使っていました。私はこの運動に<探求局>にいた時に参加しました。ジェラール・パトリスと映画を撮り始めた時、この新しい方法に興味を持ったのです。肩にカメラを置くことによって、より自由な映像が撮れることは明らかでした。ラスポリとかリーコックといった人達は、カメラの使い方、カメラとナグラの同期のさせ方についての理論的なデモンストレーションをしていたのです。今のドグマと少し似ていますが、彼らは三脚を拒否し、照明、映像の非同期を拒否したのでした。これはヌーヴェル・ヴァーグとは違ったやり方です。ヌーヴェル・ヴァーグのやりたかったことは、ハリウッド的でないプロダクションを持つということでした。映画はもっと軽快な手段でできるということを証明したかったのです。彼ら監督達は、造形芸術家達や音楽家達の間で何が起こっているかについては何も知らない者達でした。私達は彼らを知っていたし、彼らに感心していたし、彼らを好きだったし、彼らを擁護しましたが、全くコンタクトはありませんでした。別の世界でした。彼らは実験音楽を知らず、一般的にそれを使うということは余りありませんでした。」