リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

ジャック・ブリソ追悼

 ジャック・ブリソが亡くなった。リュック・フェラーリと同い歳だったので、90歳。一昨年、彼の自宅で会った時は、奥さんと一緒にお元気そうだった。最近体調が芳しくなかったことは訃報の後に聞いた。

私は2015年から四年間、生前のリュック・フェラーリと色々な面で関わりのあった人物達へのインタビューを行った。その最初の人物がジャック・ブリソだった。それは2015年12月3日(木)午後3時であった。場所はモントルイユにある彼の自宅兼アトリエ。早く着き過ぎてしまったので、玄関の前でしばらく時間を潰してから(周囲はごく普通の住宅街である)、3時きっかりに呼び鈴を押すと、本人が扉を開けてくれて「ブラヴォー」と言った。

入ってすぐは大きな倉庫のようなスペースで、彼の「箱Boîtes」シリーズや「祭壇Retables」シリーズが並べられている。これはある特定の人物や事物に捧げられた、かなり大型の、言わばショーウィンドウのようなもので、廃棄された玩具や様々なガラクタで各々のテーマに沿った情景が形作られている。中には電気仕掛けで、明かりが点いたり、部分が動いたりするものもある。真正面にはヒエロニムス・ボス『快楽の園』に「由来する」縦2メートル横6メートルほどもある大祭壇がある。「由来する」というのは、ブリソの創作テクニックの重要な部分である「ブリソラージュbrissolage」(レヴィ=ストロースの用語として有名になった「間に合わせの材料で何とかして役に立つものを作る」というような意味の「ブリコラージュ」と、キュビスム以来の「コラージュ」の合成だと思われる)が、既存の作品の、主に人物像を、現代の雑誌などの切り抜きの人物や廃棄された人形などで置き換える作業で成り立っているからである。

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その大作に向かい合っていくつかの「箱」シリーズ(「祭壇」より小さく、大抵或る特定の人物についてのもの)が並べてあって、その真ん中には「ピエール・シェフェール」があったのが印象的だった。特にその内容が、一番上の中心に太陽の顔としてグルジェフが輝いており、その真下に玩具のロボット、それから下に向かって多くのハートと恐らくシェフェールが残した言葉達(「マスコミュニケーションは文化を害する」とか「コミュニケーションとは戦争である」とか「観察者を観察せよ」とか)が鏤められ、下の方にシェフェールの有名な幾つかの写真や図像がある。これがスイッチを入れると光って動くのである。

この「祭壇」と「箱」の間を縫って右手の奥へ行くと、二階へ上がる階段がある。二階はアトリエの真上に位置する広々とした生活スペースで、床の一部がガラスで出来ていて、下の作品が眺められるようになっている。落ちそうでちょっと怖い。壁一面、窓以外は、そして棚の上などにも彼の作品や様々なオブジェ、書物などが所狭しと飾られている。そこに大きな皮張りソファーが置かれ、そこに座ったブリソに対して、私はインタビューを行ったのだった。

リュック・フェラーリとジャック・ブリソの最初の共同作品は、1960年制作の16ミリ短編映画『エジプト、おおエジプト』で、1963年のパリ・ビエンナーレ賞を受賞している(同年カンヌ映画祭にもノミネート)。この映画制作の枠組みは、フランス国営放送探究局(Service de la recherche )であるが、この組織はまさに1960年にピエール・シェフェールによって創設されたのだった。フェラーリとブリソはその以前、1950年代からの知り合いで(人形劇の劇団で知り合ったという)、同じ友人仲間にはフィリップ・ミュクセル(彼も先年亡くなった)、ジェラール・パトリス(後にシェフェールの女婿となる。1990年に自動車事故で没)などがいて、シェフェールが探究局を立ち上げる時に、フェラーリが映像部門にブリソとパトリスを誘ったのである。というのも、シェフェールのアイデアは探究局に三つの下位部門を置き、それぞれGRM(Group de recherches musicales音楽研究グループ)、GRI(Groupe de recherches d’Image映像研究グループ)、GRT(Groupe de recherches de Texteテクスト研究グループ)とするというものだったのだ。そしてその間の多様な関係性を探究するのである。これは最終的にはテレビという媒体への応用という形で探究結果を発信することになる。恐らくもともとシェフェールには、ラジオという媒体に限定されるミュジック・コンクレート探究に続いて、将来的にテレビをも含めた伝達手段([マス]コミュニケーション!)を視野に入れていたものと思われる。実際問題、フェラーリの映像作品として最も有名な『大いなるリハーサル』シリーズは、ジェラール・パトリスとの共同作業でテレビ番組として制作されたものだ。

 その後、フェラーリ/ブリソ共同作品としては『エジプト、おおエジプトII』(1962、ちなみに前作も同様だが、なぜエジプトかというと当時のブリソの彼女がエジプト人であったかららしい)、『各国はその偉人を祀る』(同年、ショパンウィリアム・テルジャンヌ・ダルクシェイクスピアポルトガルの聖アントニウスヨハン・シュトラウスワーグナーについてのドキュメンタリー)、『巡礼者達』(1963年、バイロイト音楽祭のドキュメンタリー)がある。その後、彼らはなぜか一緒に仕事をすることはなく、フェラーリは前述のようにパトリスと音楽関連番組を作り、ブリソは科学・社会・地理など特定の分野でより解り易い大衆向きのドキュメンタリーを制作する。

そして1968年。五月革命の時には、フェラーリもそうだったが、ブリソもカメラを持って街に飛び出していったらしい。しかしそこから何か作品を作るということもなく、その時以来、映像作家から造形作家・画家へと転身する。その理由について彼は何も語らなかった。しかし、もともと彼とフェラーリやパトリスとの交流の輪の中には、ダド(ミオドラグ・ジュリッチ)やジャン・デュビュッフェといった画家・造形作家達がいた。彼らを応援していたのがもとレジスタンのダニエル・コルディエで、そこには若死にしたベルナール・レキショもいたり、ブリソのもともと持っていた画家として作品を作るという希望を後押ししたのだろう。フェラーリの書斎にもダドの大きなタブローが飾られている。(音楽の世界に新風を巻き起こす音楽家達は、なぜかその交友関係に多くの画家・造形作家を持っている。サティもフェラーリもそのカテゴリーに入る。)

ブリソの公式サイトには、パリ第1大学哲学科教授フランソワ・オブラルの長大なブリソ論(『ブリソあるいは時間の固定されたイマージュ』)が収められているが、その論によれば、彼はもともと演劇的なものに非常に興味を持っていたという。確かにフェラーリとの出会いも人形劇であった。そして「祭壇」や「箱」は絵画というよりは、三次元的な何かである。そして「ブリソラージュ」によるコラージュ作品も、二次元作品ではありながら、ブリューゲルやボスを土台にしている点で、まさに時間を飛び越えている。オブラルは、哲学教授らしくドゥルーズなどを援用しながら「イマージュ=時間」について語るが、これによりブリソの1968年以前の映画作品と1968年以後の絵画作品との関連性が明らかになる達見と言えるだろう。そして90年代以後には、ブリソは実際にオペラなどの衣装や舞台演出も手がけるようになっていた。リゲティも彼の仕事に大変興味を持っており、オペラ《グラン・マカーブル》の舞台・衣装などを任せたいと考えたことがあるらしい。実現しなかったことが悔やまれる。このオペラはまさにブリソ的な世界と共通のものを多く持っているからだ。

ブリソ的な世界とは何か。これはダドやデュビュッフェとも共通する気がするのだが、そしてオブラルも詳細に論じているが、現代社会の暗黒の部分、不吉な部分、病気・死・腐敗・汚穢・汚辱などなどを扱いながら、そこに一つ突き抜けた明るい、あっけらかんとした笑いを持っている。ボスの絵画の登場人物達が安物のエロ本から切り抜かれたピンナップで置き換えられているのを見て、笑わない者がいるだろうか。神々しいはずの祭壇の聖人達がバービー人形だったらどうだろう。勿論、ここに現代社会への風刺を読み取ることも可能である。しかしそんな鹿爪らしい議論は、ブリソは鼻で笑うだろう。彼の想像力はそんな啓蒙的理性の遥か上を飛んでいる。それを私達は、作品を前にしてひしひしと感じるのだ。この圧倒的パワーは何だろう。ぜひ実物の作品を見て欲しい。

フランソワ・オブラルは論の終わりの方で、自分の夢について語っている。それは地獄でヒエロニムス・ボスとジャック・ブリソが出会うというものだ。ブリソの奥さん、エヴリーヌは天国に行っている。ヒエロニムスはジャックに歩み寄り、抱擁した後でこう言うのだという。「ブリソ、私はここで貴方を千年以上待っていたのだよ。貴方は私が生まれるずっと前に既に生者達の世界を離れていた。貴方こそ私に絵画を教えてくれた、私は貴方に全てを負っているのだ。さあ、やっと二人で一緒にやれる。ゆっくりと炎と悪魔に立ち向かおう。貴方のおかげで、我々はそのための手段を持っているから」私達は地獄でのボスとブリソの会話が聞こえてくる思いがする。ボスの方が何世紀も前の人物だって? ここでは、大森荘蔵が言うように「時間は流れない」のである。

 

(椎名 亮輔 : 同志社女子大学 / プレスク・リヤン協会日本支局長)

 

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リュック・フェラーリが設立した“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)の初期ロゴ ( ジャック・ブリソ作 ) があしらわれたポストカード。

 

 

ジャック・ブリソ氏は2020年2月18日深夜逝去されました。

ここに生前のご遺徳を偲んで衷心より哀悼の意を表します。

プレスク・リヤン協会日本支局

Program - Luc Ferrari

EN)It is with deep pain that we announce the passing away of Jacques Brissot,
our friend since the 1950s with whom we have worked, laughed
and shared some of the most precious and important moments of life.
He was the age of Luc and left us in Montreuil the night of February 18-19.
We miss him so much…

 

FR) C’est avec profonde douleur que nous faisons part du décès de Jacques Brissot,
notre ami depuis les années 1950 avec qui nous avons travaillé,
ri et partagé des plus précieux et importants moment de la vie.
Il avait l’âge de Luc et nous a quitté à Montreuil dans la nuit du 18 au 19 février.
Il nous manque tant…

【関連過去記事】

 

【報告】2015年12月、京都でのリュック・フェラーリ関連イベントレポート - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

「フェラーリ地帯(ライン)」(第2回;Jacques Brissot) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)