さる11月22日に、フランスの電子音楽作曲家・ベルナール・パルメジャーニ*が86歳の生涯を閉じました。ピエール・シェフェールの創設した音楽研究グループ・GRMの初期メンバーだったパルメジャーニは、音響技師として、また作曲家として、長年にわたり放送業界やメディアの世界を牽引しつづけました。またアクースマティックのアーティストとして数々の大作を世に送り、若い世代のクリエイターにも多大な影響を与えました。
先週28日にパリのペール・ラシェーズで行われたパルメジャーニの葬儀には多くの人が訪れたそうです。リュック・フェラーリ夫人のブリュンヒルド・フェラーリ女史も参列者のひとりでした。
「悲しみと、深い愛惜の情に包まれたお葬式だった。ベルナールの妻、クロード=アンヌは勿論いたわ。ダニエル・テルッジ、クリスチャン・ザネジ、フランソワ・ベール…何人かの人と話した。やっぱりショックだったわ。何年も前から病気だったことは知ってはいたけれど…」。
リュック・フェラーリがGRMに参画したのが1958年、ベルナール・パルメジャーニもその後すぐの1959年にGRMのメンバーとなりました。二人は60年代から70年代を親密に過ごした朋友だったと、ブリュンヒルド女史も回想しています。二人の作風は大分異なるものですが、パルメジャーニはフェラーリの作品に高い感銘を受けていました。実際、パルメジャーニの初期の作品“Violostries(1964)”について、その着想の源としてフェラーリの名を一番に挙げています。
「本当の意味で音楽的影響がどこにあるとは明言できるものではないと思うんだけど、それでもフェラーリの音楽は好きだね。レコードもよく聴いた。人物としても面白くて、絵画的な味というか、不条理さがあるんだ」。
ヴァイオリンとテープのための“Violostries(1964)”は舞踊の音楽として制作されました。ここにパルメジャーニがかつてジャック・ルコックから習っていたマイムの影響をみることができますが、フェラーリもまた同時期にルコックに師事していたという面白い事実があります。パリに生まれたこと、ピアノを習っていたこと、初期GRMのメンバーであること、クセナキスとの仕事、その後GRMを去って自身のスタジオを作ったこと、ドイツWDR放送への滞在、純粋音楽だけでなく映画やラジオの音楽に従事したこと、来日経験のあること……フェラーリとパルメジャーニの共通点はいくつもありますが、特にユニークなのがこのマイムだといえるでしょう。
マイムというと身体表現の一種というイメージですが、ジャック・ルコックはもっと広い意味でマイムを捉えていました。ルコックは単なる踊りのレッスンではなく、芸術の本質に至る創造教育を目指していたのです。固定化された知識ではなく、たえず実験し、創造していく姿勢。「できるだけ広く不変の基礎を身につけたら、あとはいろいろな要素の中からそれぞれ自分の道を選んでほしい」という彼の眼差しは、俳優、舞台美術家、音楽家、演出家など、ダンスの枠を超えて沢山の芸術家を輩出することとなりました。ルコックはこの教育を「芸術家が自分自身の基盤をつくるためのもの」と位置づけ、「即興」「動きの分析」「個人の創作」を軸に内的感覚と現実を見つめる意識を育てようとしました。
芸術家・文化人としてのこの鋭い視線。パリに居る同時代人として、パルメジャーニもフェラーリもルコックのそんな洞察力に惹かれ、自身の音楽的探求の一助としたのでしょう。「即興」「動きの分析」「個人の創作」はそのまま音楽のテクニックに読み替えられそうですが、むしろ定式の技法とは対極にある「絶えざる冒険」がそこにはあったのです。実際、パルメジャーニの音は生きていました。これもフェラーリとの大きな共通点かもしれません。現実音をユーモアたっぷりに織り交ぜたフィクショナルな作風のフェラーリに対して、きらびやかな電子音を多用したダイナミックな手法を好んだパルメジャーニですが、二人の音はまるで細胞ひとつひとつがぴちぴちとひしめくように、人を動かすエネルギーに満ち溢れています。
来月1月13日には、パリ6区のMPAA Saint Germainで追悼コンサートが予定されています。フランス電子音楽界をフェラーリとともにリードした、ひとりの芸術家の軌跡を振り返ってみてはいかがでしょうか。
(*注 パルメジアーニ、パルメジアニとも表記される)