リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

思い出の循環

ジャクリーヌ・コー『リュック・フェラーリとほとんど何もない』の中の《思い出の循環》についての記述を以下に引用します。


思い出の循環

1995年4月8日

音響装置は、観客—聴衆を取り囲む曲線の表面を作るようにしなければならない。しかし、いる場所によって、異なった距離からの音響を受け取ることになる。すなわち、位置を変えることによって、多少とも空間を感じ取る、クローズアップやその逆を感じるのである。
こうして、六つの独立した音源が考えられるが、それらは離れているように知覚されたり、また同時に、一つの全体的環境を作るほどに混ざって聞かれることも必要である。
この六つの音源はそれぞれ独立して鳴らされる。それらは同期させられることなく、偶然的に時間の中で重なり合い、それはちょうど、実人生の音が私達の耳に到着する時に重なる、或いはより深く、私達の私的領域、頭の中の秘密の一角に到達する時に重なっているようなものだ。
六台の音源、ということは、およそ70分のCDが六枚、各CDは長さが異なっており、それによって決して重なり合いが同じにならないようになっている。
各CDの構成は同じである。4つの要素から出来ている。すなわち、
1) 言葉の要素(声、単語、文章の断片)
2) 現実の要素(環境音、多少とも解り易いそれ)
3) 沈黙(長さの異なる空虚)
4) 和声音の要素(「抽象」音或いは楽器音、層になっている)。
こうして、これらの要素は偶然的に時間の中で重なり合い、空間の中で変化する表面を形作り、身体の和声的曲線を移動させるような旅を生み出す。

1995年6月8日

四月一日に、私は一つの仕事の方法を発明し始めた。つまり、このインスタレーションの中に、空間と時間の中に撒き散らされたテクストがあるといいのではないかと思ったのだ。
テクストを書くことは私には問題ではなかった、しかし私は、書くという考え自体が偶然のデータに従うようにしたいと思った。
というわけで、ゲームの規則を見つける必要があった。
自分にこう言った。うんそうだな、例えば50の単語で書いてみよう。
以下が私が四月一日に書いたものである。

1995年4月1日

50語。
国語辞典から、形容し難い方法によって、偶然的に選ばれた。私は次の50語を、プチ・ロベール辞典を用いて選ぶことにした。目をつぶって指差すことをすると、実際は、単語以外のもの、説明とか、類義語とか、反対語とかに当たることがある。
やってみた。
この第二のリストは、第一のものとは全然違っていた。

1995年6月8日

「灰皿」は私にとって、仕事の道具となった、これについて説明しなければならない、知らない者達のために。私は時折、アイデアの断片を、雲の断片の中に身体の部分を見るように、手に入れることがある、それをどうしたらいいか解らない、どのようにそれを完全に取り払って[見えるようにしたらいいか]。アイデアを裸にすること。
手短かに言うと、自分で作ってみた色々な計略のうちで、最近は灰皿を使ったというのである。
番号を打った紙切れを灰皿に入れて、そこから何でも取り出すことができる。そこに言葉を入れることもできる。

1995年4月1日

こういうアイデアである。言葉或いは文章の断片を無作為に選ぶ、
選んだ順番に並べてテクストを作るというのが計画である。(今私は二つの灰皿を持っている。一つは、いわば抽象的な形のもので、もう一つは、灰皿のふちの部分に寝そべった女性がついていて、彼女の腹部が大きく凹状になっている形である。私は偶然を探す。)

4月2日

昨日は、二つの灰皿から101の単語すなわち要素を引き出した。

4月26日

そのあいだ私は働いていたのだ!
音響素材の全体構成について働いたのだ。その原理は、音のインスタレーション全体にわたって配分された、或る数の和声的・調性的筋書きを用意することだ。ここで説明しよう、つまらないかも知れないが、少なくともそれは正確なものだ。音響点が六つある。各点は、一枚のCDに繋がっており、すなわち点ごとに大体70分あることになる。私は、或る数の作曲家と同様に、12の調性を扱えるので、この12調性を空間の中に配置できると単純に考えていた。
灰皿から調性を選ぶことで、或る種の結果が得られないものかと考えた。そこで12調性のうちから3回抽選をして、偶然の戯れによって、調性の反復を手に入れた、というのも一度抽選をしてから、それを灰皿に戻していたからで、こうして何回でも同じ調性が出て来る可能性があるわけだ。
ついで時間をシミュレーションし始めた。
全体で70分の間に、どれだけの時間、一つの調性の筋書きが続くべきか、どれだけの時間、一つの現実の環境音が続くべきか、どれだけの言葉、どれだけの沈黙があればいいのか?
この持続時間を作り上げる。
何がそこでできるか?
例えば、2分間の言葉が2回、4分間の現実音が5回、そして4分間の和声音が6回。これで、13の要素があり、全体で48分間の音が得られる。残りは22分間の沈黙である。各音響要素の間に沈黙を入れるとすると、12沈黙が必要で、すると各沈黙は1分50秒の長さになる。
こうして、私は沈黙が十分に長くないことに気がついた、そして空間の6つの点においてこれらの組織を配分すると余りに混乱した素材を作り上げてしまうということに。というわけで、もっと洗練させる必要がある、もし可能ならば!
というわけで70分をもう一度取り上げて、次のように作ってみた。すなわち、
2分間の言葉2回はそのままにしておこう、と自分に言った、しかし、4分間の現実音は5回に減らし、和声音は4回に減らす代わりに5分間に伸ばそう。これで40分間の音と、30分間の沈黙になる。しかし今度は、要素が少なくたったの10個なので、それらの間に沈黙を入れるとすると、沈黙は9個、だから各沈黙は3分20秒の長さになり、これはかなり余裕があると言える。

4月27日

調性に戻ろう。
この新しい考察によれば、CDごとに4つの和声的筋書きがあることになる。今度は、完全に非合理的なやり方で調性を組織する方法があるかどうかという問題を自問する。灰皿をまた持って来て、4つの調性の6つのグループを手に入れる。
次のような結果になったが、これは次のように分析できる。まず、ファとかラのフラットのように出て来なかった調性があるということを確認しよう。ということは、10の調性が残っていることになる。
ついで、他のものよりも頻繁に出て来たものがある。ミのフラットとソのフラットは4回、ソとレとレのフラットは3回、ミとラは2回、シとドとシのフラットは1回だけ。
さあ、これで出来上がりだ!

4月28日

CDごとに10の言葉が必要で、これで大体一語で7分間になる。

5月1日

私は決めた、細かいことはここでは語りたくない計算の後、それぞれ三つの言語で4つのテクストがあることに決めた。後は、どのように空間の中でテクストと言語が混ざって行くかを計算するだけだ。

6月8日

四月一日に50語での最初の試みについて語った時は、それで練習をしようとしたのだった。今や私は極度に超絶技巧的な辞書の使い方をしている。
プチ・ロベールを取り、目をつぶり、好きな所を開け、ページの空間に指を衝動的に突っ込む。
そして目を開け、指を持ち上げ、語の解説の一部を見出すが、それは私が目を開ける瞬間に、詩的なオブジェとして現れて来る。
これらの断片は私には偶然の真珠であり、それらを詩として繋ぎ合わせるだけでいいのである。

5月1日

一方で言葉がある。CDごとに10語、これで60語になる(60の文章の断片と言った方がいいだろう)。
恣意的なやり方で — 「権威的なやり方で」とは言えないだろう、というのも私は一人だし、自分のために選んでいるのだから — この同じ語をテクストを書くために使うことにした。こうして言葉は、一方では撒かれ、他方では集められる。
テクストは全部、女性の声で語られる。
語り方は、非常に念の入ったもので、ためらいがちであり、しかし恣意的なやり方で、時間によって柔らかにかすれていて、急いだり、ゆっくりになったりする。

5月22日

現実の環境音は、非常に解りやすかったり、中程度に解りやすかったり、殆ど抽象的であったりさえする。しかし、それら全ては、記憶・内面・私の主観的ヴィジョンと関連があり、私の思い出と関わっている。
各要素は4分間で、小さな物語を語り、一つのドラマを感じさせる。これは作曲である。これは、私が遠い昔に録音し、全く使用せずに、忘れてしまい、今回使うことにした、音達の間を探しまわる一つのやり方なのだ。それはまた、私の現在時を録音することでもある。時間を混ぜ合わせること。路程である。
リストを作る。例えば、要素として、海・風・火山。摩擦として、布・皮膚・身体。交通として、町・列車・船・歩行。風景として、自然の環境音、夜の物音。内部として、家の中の音・化粧・遠くに聞こえる音楽。

6月16日

私の計画によれば、24の「現実の環境音」を作曲しなければならない。今の状況はこうだ。現実は表現されるよりもむしろ示唆されるということに気がついた。しかし、音はこのように出来ている、つまり、それが現実に結び付いていることは解るが、その原因については忘れてしまっているような、幻影的なイメージを提示するのだ。
この時、人は記憶のコレクションを手に入れる。
これが私が生まれたロラン通りである。
私が小さい頃、両親が私が「遊ぶ」ようにと連れて行った、リュテース闘技場である。長い間、買い物をしていたムフタール通り。そしてここは家だ、私達の音、私達の扉、私達の階段、私達の食器である。私の内部。化粧、私はいつも遠くから聞こえるこの小さな物音に魅了されていた。アムステルダム路面電車の駅、駅の屋根の下に座り、目の前を過ぎ去る全てのものを身動きもせずに録音する。ポルトガルの海、カーネーション革命の時だ。そして、花火とミサ、両方ともポルトガルでは非常に盛んである。ヴェンティミリア、国境に均衡をとりながら立っている小さな村。また、セロニアス・モンクの『ミステリオーゾ』、非常に曖昧な夢の中で聞こえるように細工した。勿論、私の仕事場と、私を取り巻くオブジェ達。そして最後に、女性の身体、私の配慮の常なるテーマである。

9月24日

全ての作業の終わりに確認したことだが、この作品は大部分が、記憶についての、不動性と動きについての仕事である、ということが解った。実際、現実のと呼ばれている音を取ってみると、それはむしろ語りの音と呼ばれるべきで、これが私の個人的記憶と結び付いていることが解る、いわば私の内面と結び付いているわけで、例えばこの私のものだと私が解る全ての物音がそうである。でもこれは私だけが解るのだ。