というわけで、1999年、20世紀も押し詰まって、リュック・フェラーリへのインタビューが実現するのであった。場所は、ナシオンのメトロ駅近くの、アトリエ・ポストビリッヒ。これはヴォルテール通りからちょっと入った、ヴォルテール団地(?cité というのをどう訳したらよいのか、英語のシティですが、市街というと変ですね)にある、多分昔は工場かなにかだったところを、改造して、アーティストのアトリエにしている。もともと、フェラーリは5区のモンジュ通りの近くにアトリエ兼住居を持っていたらしいのだが(そう言えば、最近できた大阪阪急の中にモンジュというパン屋さんが入って、大変な盛況らしい。でも、モンジュ通りにそんなすごいパン屋さんってあったかな……)、そこが建て替えだかなんだかで住めなくなって、住居はモントルイユというパリ西郊の町に、そして仕事場だけはパリ市内に欲しいということで、ここにアトリエを定めたとのこと。電話でインタビューを申し込むと(当時はまだ余りメールでやりとりとかなかった)、快く受けてくれたのだったが、フランス人との電話というといつも思い出すのは、これも先年亡くなった私の指導教官のダニエル・シャルル先生である。というのも、東大フランス科でフランス語を習ったわけだが、この教養学科というところは、戦前からの実際に役に立たない外国語教育(ろくにきちんと発音できない日本人教員による講読教育)ではなくて、実践的な外国語教育を売りにしており、実際に、初期の頃には外交官になるものがけっこう出ていたり、確かに外国人教師の数は仏文なんかの比ではなかった。私が習った先生たちは、モーリス・パンゲ、フランソワーズ・ブロック、エストレリータ・ヴァッセルマン、アラン・ロシェ、その他にも習わなかったけれど、プズー=マサビオーとか、他にも数人がいたと記憶している。そこで、言いたかったことは、彼らに教えられた実践的フランス語は実に役に立った、留学早々、地下鉄の中で道を訊いて、一発で通じたことに感動したことを覚えているのだが、そんな教育の中でも電話のやりとりはきちんと教わっていなかったということだ。つまり、ダニエル・シャルル先生と電話で話すと、これが困ってしまうわけで、一番困ったのが、電話を切れないことだ。電話での話を切り上げる言い方を習っていないので、知らないのである。そんな変な日本人のフランス語による長電話に、実に丁寧に、シャルル先生はおつきあいくださるのである。彼から電話を切るということがない。「エクテ(まあ、お聞きなさい)」というのを連発していたのをよく覚えているが、今から考えると、これは、長電話をしている相手を、心配しなくてもいいから、とほぼなだめている言い方だったのだろう。さて、そして、これがまた、フェラーリも同じだったのだ。この丁寧な印象は、最初にあった時にも変わらなかった。(続く)(椎名亮輔)