リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

リュック・フェラーリとの出会い1

こうして「ラジオ・ドラマからヘールシュピールへ」でも述べたように、私がリュック・フェラーリと出会ったのは、近藤譲の著書『線の音楽』の中でが最初であった。そこには、何も手つかずの環境音がただひたすら録音されているだけの作品として《ほとんど何もない》が挙げられていた。その後、1984年から1985年の最初のパリ留学の時に、FNACで《ほとんど何もない第二》のレコードを買った話も書いた。そして、二回目の留学である。私は1985年夏に帰国してから、一所懸命に修士論文を書いた。テーマは、まさに今年生誕150周年のドビュッシーである、題は「ドビュッシーと東洋」。何しろ「ビガク」がイヤで(ファッショな今道がいたから ― しかし、彼も最近鬼籍にお入りなられましたな[合掌])「ヒカク」に入ってしまったので、何でも比較しなければならなくなったのである。[註:大学院の美学科に行かずに、比較文学比較文化に行ったということ。]そして、フランス政府給費留学生試験を受けようと思った矢先に、どんどん経費節減していたフランス政府の緊縮策で、文系の募集に「芸術学系」がなくなってしまったのだった。ありゃりゃ、という感じである。途方に暮れていると、修士論文の「臨時」指導教官であった阿部良雄先生(というのも、本当の指導教官だった渡辺守章は、院生などうっちゃって、とっととフランスにサバティカルしてしまったからだが)が一計を案じてくださり、古くからのお知り合いだった、音楽評論家の遠山一行先生に相談してくれたのだった。すると、効果覿面、何と遠山先生の持っておられる(これがすごいが)財団法人、偕成会から留学のための奨学金が貰えることになったのだから、なんと素晴らしい!そこで、1987年の秋から再びパリに行くことになった。そこで、ドビュッシー修論の時にいろいろと相談にのってくれていた、早稲田の笠羽映子先生の紹介で出会ったのが、大里俊晴さんだったのだ。(続く)(椎名亮輔)