リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

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ああ、何てややこしい。というわけで、「Numero Quatro ヌメロ・クアトロ」について、三つの作品で使われていると述べたのだが、ちょっと不安になったので、もう一度《盲人の階段》を聴き直してみた。すると……、ないのである。よーく考えてみると、この《逸話的なもの》には、ちゃんと日付が打ってあって、「ヌメロ・クアトロ」は、2001年6月、確かにスペインだけれども、ロンダという地名もある。マドリッドではない。《盲人の階段》はスペインのマドリッドでの、フェラーリとスペイン女性のやりとりなのだし、それも1991年の作品だから、録音はそれより以前のはず。しかし、彼は自伝的文章をいくつか書いていて、それがいつも、日付や場所が異なっているので、人を煙にまく韜晦がそこにはあるのだが、作品に関するデータだけは確かなようだ。(本当かな?)彼の表現(言葉でも、音響でも)それがどこまで本当で、どこまで創作で、どこまで……、というのが最終的には全て曖昧になっていくような気がする。その上、音響の記憶と言うのは、かくも曖昧だ(これはちょっと言い訳)。彼の自伝的文章は例えば、以下のようなものだ。

自伝No 5
私は、ロワイヤンで、1907年2月12日に生まれた、と思う。

自伝No 15
私がモントーバンで1898年に生まれた時、外は嵐だった。

自伝No 7
1900年8月22日、ラ・シオタでの私の生誕時、私の祖父はまだ税関の官舎でコルネットを吹いていた。

自伝No 8
私は1924年2月5日には生まれなかった。

これらの文章はそっくりそのままジャクリーヌ・コーの映画『リュック・フェラーリとほとんど何もない』の中に、エリーズ・カロンの語りで出てくる。今回の関連企画の一つとして、11月15日、同志社大学今出川校地寒梅館で上映されます。(椎名亮輔)