リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

ピエール・アンリ追悼 : 椎名亮輔 Pierre Henry(9, DEC, 1927 ー 5, Jul, 2017)by Ryosuke Shiina

 

 

La disparition de Pierre Henry, membre de notre Association PRESQUE RIEN dès sa création en 2006, nous laisse à nouveau un vide profond. Il vivra dans notre mémoire à tous et sa musique survivra notre tristesse.

 

2006年の創設時以来、わたしたちプレスク・リヤン協会の会員であった、ピエール・アンリの死は、またわたしたちのこころに深い虚しさを残しました。彼はわたしたち皆の記憶の中に生き続け、彼の音楽はわたしたちの悲しみをこえて生き残るでしょう。  

 Association Presque Rien

http://lucferrari.com

 

◆音響の魅力

 

 ピエール・アンリの作品を数多く教えてくれたのは、亡くなった大里俊晴さんだった。彼とは、わたしの二度目のフランス留学のときにパリで出会った。1987年ころのことだ。わたしは最初の留学のときからパリ第8大学音楽学科でダニエル・シャルル先生のゼミにいたのだが、彼がそこにやってきたのである。彼がくることはすでに、以前からドビュッシー研究のことなどでお世話になっていた早稲田大学の笠羽映子先生からきいていた。わたしがシャルル先生と連絡がとれたのは当時の国立音楽大学学長の海老沢敏先生のおかげだったが(彼は東大教養学科のフランス科で音楽を教えていた)、大里さんは笠羽先生の紹介でシャルル先生のところにきたのだった。大里さんは早稲田の仏文出身である。

 

 当時大里さんはパリ国際大学都市のベルギー館に住んでおり、わたしは最初は日本館、ついでお向かいのスウェーデン館に移り住んでいた。そのころ、パリ第8大学へは今のように直通のメトロは通っていなくて、同じメトロ13号線はサン=ドニで終点だった。そこからバスに乗り換えて大学へ行くのである。しかし、その他にもいくつかの通学手段があって、RERのB線で現在はサッカー場ができたので「スタード・ド・フランス(フランスのスタジアム)」と名前を変えているが、以前は「プレーヌ・ド・ヴォワイヤジュール」だった駅(駅名を日本語にすると「旅行客で一杯の」みたいな意味なのだが、実際は旅行客どころか人間の姿がほとんど見えない、場末のものすごくさびれた駅で、その落差に笑ったものだった)で降りてバスに乗るというのもあり、そしてわたしたちがもっとも利用した(というか途中で大学に行かないという選択肢も多かったが)のがメトロ4号線の終点「ポルト・ド・クリニャンクール」で降りて、そこからバスに乗るというものだった。なぜか? もちろん、そこに蚤の市があったからだ。そこには数軒の中古レコード屋があったのである。

 

 ここからやっとピエール・アンリの話になるのだが、大里さんの中古レコード収集癖というのはすさまじいもので、これはもう「〜〜癖」どころのさわぎではなく、ほとんど「仕事」あるいは「使命」みたいなものだった。いつも必ず、レコードを入れるためわざわざ買った、ちょうどよい大きさの、大変に丈夫な手提げというか肩かけカバンをもって、中古レコード店に突撃し、すさまじい速度でレコード盤を一枚一枚さぐっていくのである。そして、これは、というものを見つけると、自分でもっていないものはもちろん自分用に確保し、自分でもっていても「聴いてみる価値のある」ものはわたしに推薦してくれるのである。それらは、現代音楽あり、古楽あり、フリージャズあり、プログレとかパンクとかもあり、そんな中に一連の銀色のLPがあったのである。これこそフィリップスから出ていた伝説の「prospective 21e siècle」(「21世紀の未来学」とでも訳すのか)シリーズであった。

 

 ピエール・アンリとはだから、この銀色のレコード、まさに銀盤で出会ったのだ。それは具体的には《扉とためいきの変奏曲》、《旅》そして3枚組の《ヨハネ黙示録》だった。それ以外にも、大里さんはアンリを見つけると、たいていは彼自身はすでにもっていたので(これも、それまで彼が日本にいたことを考えると、すごいことだが)、わたしに買わせた。それらは、《『緑の女王』への音楽》、《現在時のミサ》、《一人の男のための交響曲》、《フュチュリスティー》そして《ムーヴマン、リズム、エチュード》だった。

 

 そして、大里さんはそのようなレコードをただ買って集めるだけではなくて、ちゃんと聴いていた。最初はプレーヤーをもっていなかったのだが、ある時期からは、レコードを縦にして、針の部分と残りの部分で挟んで再生するプレーヤーを手に入れて、それで飽くことなく、さまざまな音源を聴きあさっていた。その場に何回もいあわせて感じたことは、彼が本当に音を「愛している」ということだった。彼が手に入れようと望んでいたのは、彼のお気に入りの「音」なのだった。音について、彼は「すごい」「かっこいい」「かわいい」などといって、本当に愛玩しているふうが如実に伝わってくるのである。それがはっきりしていたのが、アンリの作品であり、フランソワ・ベールの作品であった。

 

 彼のこの態度は、もうひとつ別の彼のコレクション対象であった、鉱物結晶の標本に対する態度とまったく同じだった。今となっては彼がどのような結晶をもっていたのかはおぼえていないが、赤や黄色や青にかがやく不思議なかたちの鉱物たちを、いともいとおしそうに眺め、触れていたすがたを思い出す。そして、この態度がまさにピエール・アンリの音響に対する態度とまったく同じだったのである。音響の鉱物結晶的な魅力とでもいえるだろうか。アンリの作品の中にはそのような鉱物的な音響が満ちあふれている。《旅》の中の「死後の世界」にはそのようなパチパチはぜる音がいっぱいだ。

 

 

◆アンリ的音響の作り方

 

 大里さんとつねに話題となっていた音楽家は、しかし、アンリではなくて、リュック・フェラーリだった。しかし、大里さんがフェラーリの音響を「かわいい」といって愛玩していた記憶はない。ではフェラーリ的音響は大里さんの気には入らなかったのだろうか。そうではない。フェラーリの音響はそれ自体をかわいがるといった性質のものではなかったのだ。

 

 彼と一緒にブーローニュの音楽院にフェラーリの講演を聞きにいったことを思い出す。そのとき、フェラーリは自分の生み出す音響について語っていたのだが、その中で「ごつん」という衝撃音について「これはわたしが風呂場でころんで頭をうったときの音です」といって会場を沸かせたのだが、このタイプの音響なのである。大里さんもわたしも大笑いしたが、フェラーリの魅力をわれわれはこういったアプローチに感じていた。

 

 フェラーリの音響はあるときはこのようにコミックであったり、あるときは《細胞 75》のジャケットのようにエロティックであったり、あるときは《プレスク・リヤン第2番》のように夏の濃い闇につつまれたアンティムなものだったりする。これらの音はそれ自体を嗅いだり撫ぜたりして楽しむものではない。そして、アンリの音響はその逆で、むしろそれ自体を嗅いだり撫ぜたりするものなのだ。

 

 アンリのそのような音響は彼のとても強い要求から生まれてきている。その点を明らかに示してくれているのが、《旅》の創作方法について述べている、ミシェル・シオンの文章である。引用しよう。

 

ピエール・アンリによる《旅》の最終的な仕上げは、彼のスタジオ「アプソム」において、1961年12月18日にはじまり、1962年1月末に終わった。つまり、だいたい一月半のあいだにピエール・アンリは、あらかじめ決めておいたプランに従って、ときどき「食うための仕事」に中断されながらも、着実に仕事を進めたのだ。《旅》の作曲はものすごい緊張のもと行われた。テープレコーダーたちを使ったミキシングはとりわけ苦痛に満ちたものだった。なぜなら、多くの楽章が切れ目のない一続きのものだったからで、それが10分間は続くのである。それぞれのテイクのいい部分だけをつぎはぎするなどということは考えられなかった。ちょっとでもミキシングをへますると、それが1秒間のものであっても、訂正は不可能なので、最初から全部やり直しをしなければならなかった。フェードイン、フェードアウト、音響たちのあいだの連続したつながり、これらはすべすべした石の表面のように完璧でなければならなかった。この時期の全作品のアシスタントだった、イザベル・シャンドンの証言によれば、ミキシングは、作曲の仕事の中で、アンリが最大限の肉体的集中力を行使した部分だったという。彼はいくつものボタンにつききりで、大汗をかき、身をよじり、「彼自身がひとつのオーケストラであるかのように踊っていた」。http://michelchion.com/blog/114-la-preuve-par-l-oeuvre-n-1, 2017年7月20日アクセス)

 

ピエール・アンリは自らの構想した音響を手に入れるためには「大汗をかき、身をよじ」らなければならなかった。このような「肉体的集中力」は、彼の音響を手に入れるためには必要なものだった。

 

 そしてこのような肉体的努力はフェラーリにとってはほとんど無縁のものだったのではないだろうか。もちろん、フェラーリも彼のGRM時代には「肉体運動」を余儀なくされていた。それはミュジック・コンクレートの初期の時代だったのだが、当然テープはまだ存在せず、何枚ものレコードと何台ものプレーヤーのあいだを走り回って、音響を調節しなければならなかったのだ。さらには、さまざまなオブジェを叩いたり、こすったり、引っ掻いたりする作業も当然あったわけで、それによって興味深い音響を生み出すわけだから必須の作業である。これは、しかし元来ピエール・アンリが、シェフェールと仲違いして出て行ってしまうまでは、おこなっていた作業だったはずだ。そして、コンセルヴァトワールの打楽器科出身のアンリにとっては、これはまさに「適材適所」の仕事であったようだ。しかし、フェラーリは違う。

 

 ここでフェラーリが若いころに結核をわずらい、それ以来、呼吸器系がそれほど強くない(といってもタバコはやめなかったが)いわば「蒲柳の質」をもちつづけていたことを思い出してもよい。面白いことに、そのような体質の差異が、彼ら二人の音楽の性質の差異にまで反響しているように見えるのである。体育会系のアンリと文弱系のフェラーリというような感じか。そのことをアンリ自身もこう述べている。「わたしはたくさん体操をしたものだった。ムーヴマン(動き)、練習、呼吸。それ以来、わたしは息に興味を持った。わたしの仕事における、息の重要性。たとえば、《旅》の息、《アルトー》の息、《黙示録》の息。これらすべての息は必要不可欠なものだ」(Pierre Henry, Journal de mes sons, Séguier, 1996, p.12.)。これは、彼が若いころに体操や運動が好きで多くやっていたというのか、それともGRM時代やそれより後でも、スタジオ内で先ほど引用したようなかたちで作曲を進めるなかで行っていた身体の動きが「体操」のようなものだった、ということなのか、どちらかはあまりはっきりしない。

 

 いずれにせよ、ここでわかることは、ピエール・アンリの音響の作り方はひじょうに身体的なものであることだ。彼自身の身体の動き、緊張、呼吸などというものが直接に、そこから生み出される音響に反映しているのである。

 

 

◆「演奏」としての電子音響音楽(アクースマとは違う)

 

 

 実際のそのようなミキシングのようすについて興味深い証言をアンリ自身が残している。

 

その当時[ミュジック・コンクレートの初期]、音響操作は、むしろあらっぽいものだった。そのため、けっこう奇妙なやり方をみんなしていたものだったが、これは今となってはもうないやり方だ。鍵盤のシステムによって、あらゆる種類の音の入りを生み出すこと、クレッシェンドでアタックすること、あるシーケンスを縞にしたり、採取したりすることができた。それぞれの装置にはレバーがついていて、それによりグリッサンドと高さの調節が可能だった。高さの変化は指をちょっと動かすだけでできたので、腕と手首の柔軟さのうまい配合が必要だった。

つまりは、楽器[の演奏]に戻ったようなものだったのだ。

(Henry, op.cit., pp.16-7.)

 

シーケンスを縞にする、というのはよくわからないが、原語は「hachurer」でこれは「(地図で山などに)線影をつける」という意味である。平行線をたくさん引くことによって凹凸をつけるわけだ。いずれにせよ、ここで問題となっているのは、ミュジック・コンクレートや電子音楽、テープ音楽といわれるものが、よく一般に考えられているように、ボタンをぽんと押すだけでできあがっていく、というようなものではないということだ。そのようなデジタルなものではなく、もっと原始的な、アナログな操作を必要としてるものなのだ(しかし、ここでちょっとかっこを開くと、「デジタル」という語の語源はラテン語の「デジトゥス」(指)から来ているので、指で操作している感じがぴったりともいえる。しかしまた、ここで二重のかっこを開くと、ラテン語の「指」が語源なのは「指で数える」からなので、指でさわるわけではない)。

 

 アンリの音楽は、機械によって冷たく「作曲される」というよりも、彼自身の身体によって熱く「演奏される」という方が的確なようだ。それが録音という行為によって記録され、聴衆に届けられる。この、彼の音楽の「身体性」については、また同じ書物のなかで、彼自身が語っている。「わたしにとっては、素材との密接な身体的接触が必要なのだ。わたしの身体がそれらを感じられるように[聴かれるように]するのである。わたしはいわば全裸で録音する。それはつまり、私の身体もまた演奏するためであり、すべてが、一曲の交響曲のように[自由に]動くためには必要なのだ」(Ibid., p.33.)。彼の音響は彼自身の「全裸の身体」によって練り上げられ、作り上げられていく。そしてこの態度はもちろん、彼の打楽器奏者としての出自と無関係ではないだろう。

 

 彼の《扉とためいきの変奏曲》はこうして、田舎の納屋のさびついた扉を彼が「演奏した」結果なのである。彼自身が語っているのを聞こう。

 

わたしたちの楽器はわたしたちの手に従順である必要がある。わたしは音を引き出し、それを保ち、それを引き延ばし、左右に振り、その成り行きをささえているのが好きだ。

ボタンを押すだけなど大嫌いだ。

わたしは[音に]触らなければならないのだ。

そのようにして、わたしは音源を変調させる。つまり、この世にない楽器の演奏者となるというわけだ。

 

たとえば、木材の端切れ。

これを演奏する方法を発明した。

そして《扉とためいきの変奏曲》では、なんと、わたしは扉の音階をあみだして、扉を演奏することを習得したのだ。

(Ibid., p.36.)

 

 前に大里さんがアンリの音を嗅いだり撫ぜたりして愛玩していたことを書いたが、まさしくアンリ自身がそのようにして音を作っていたのである。打楽器奏者である彼は楽器を叩いたり、こすったり、撫ぜたりして音を作るのだが、シンセサイザーの音を嫌い、プラスチック製の皮をはった現代のティンパニも否定する。「[前略]わたしは透明なプラスチックの皮の現代のティンパニは好きではない。かつては、皮に軽く触れるだけで音楽が生まれたものだ。/そしてその皮は香りをもっていた。そう、香りは音楽にはたいせつだ。/味も」(Ibid., p.39.)。

 

 そのような一種、音響に対するフェティッシュ的な態度によって作られた音楽は、それを録音して提供するだけではなくて、正しく発信し享受させるためには、音響の発生現場での綿密なコントロールも必要となってくる。ひとたびレコード化されて発表されてしまうとそれはほとんど不可能だが、公開コンサートではそれが可能だ。アンリはそれにこだわる。そのことは、数少ないわたし自身のアンリのコンサート体験によっても確認できたことだ。ホールの前方にいくつか配置されたスピーカーがあり、それとケーブルで接続されているコンソールがアンリの占める位置になるわけだが、そのコンソールは客席のなかにある場合でも、舞台の方にある場合でも、いずれにせよ、スポットライトによってそこだけ明るく照らされ、客席のどこからでもはっきりと彼の身体の動きが見えるようになっている。彼はそこで、全観客の注視のなか、「いくつものボタンにつききりで、大汗をかき、身をよじり、彼自身がひとつのオーケストラであるかのように踊」るのである。

 

 ここからフランソワ・ベールなどの駆使するアクースモニウムの概念と、アンリのコンサートの在り方がまったく相容れないことがよくわかる。実際問題、アンリにとって、音響が空間のなかをどのように移動したり、出現・消滅したり、変形したりするか、というようなことは問題とならない。もちろん、音響の空間化ということだけを見れば、両者とも同じ目的を追求しているとはいえよう。アンリにとっても、音響はその身体性によって空間性を獲得しているともいえるからだ。しかし、そのこと自体が目的となってしまっているアクースモニウム的アプローチと異なり、アンリにはそれとは違った物語をものがたるという目的がある。(この場合の「物語」とは、フェラーリ的な「逸話」とはちがうことに注意しよう。)

 

 もっとも重要な違いは、アクースモニウムの出発点が「源泉が見えない音響」を生み出すことにあったところにある。音は隠れたところからやってくる。それとは違って、アンリのコンサートでは、音は、アンリ自身が陣取るあかあかと照らされたコンソールから生み出されていくのである。そして、聴衆は、そのアンリをまるで教祖様のようにあがめる。そう、これは一種の宗教儀式なのだ。彼の言葉を聞こう。

 

エコー、ほとんど神秘的なコレスポンダンス。

わたしは作曲をひとつの儀式として行う。

決められた身振り、反復される身振りでもって。

祈りのように。

この祈りのなかでは、わたしはどのような制限も認めない、どのような外的規則もない。

この音楽はわたしを自由にする行為なのだ。

そういう意味でわたしは自分を神秘的に感じる。

(Ibid., p.39.)

 

ここで語られているのは、とくに演奏行為のことではないが、アンリにとって「作曲」と「演奏」がほとんど同義語であったことを思えば、これは彼のコンサートにもまったく同じように言えることだとしても、あながちまちがいではないだろうと思う。

 

 ピエール・アンリは、先日、7月5日に89歳で亡くなってしまったわけだが、すでにその作品《旅》において、チベットの『死者の書』にもとづいて、死後の世界の音響をイマジネーション豊かに描き出していた。今ごろ、彼自身がどのような音響に包まれているのか、このような音響だったのか、あるいは……。

 

 

(2017年7月30日、酷暑の京田辺にて)

 

 

 

 

 

 ー 小冊子進呈のお知らせ ー

 

ピエール・アンリについて日本語でまとめられた唯一ともいえる小冊子「ピエール・アンリ 音の芸術」(ピエール・アンリ、川崎弘二・檜垣智也編 、engine books 2015)を今回、川崎弘二さんの御厚意により無料で進呈いたしております(送料のみ着払いにてご負担ください)。

 

ご希望の方は、ブログ最上部に書かれているメールアドレス、もしくはプレスク・リヤン協会日本支局公式ツイッター(presquerien_ja)のDMにて、件名を「ピエール・アンリ冊子希望」と書き、お名前と住所を添えてお申し込みください。

(なお、規定部数に達し次第この文章を取り下げますので、掲載の間はお申し込みいただけます)

 

【参考:ピエール・アンリ邸の紹介と、今後の保全管理について】

 

Dans la maison studio de Pierre Henry - Musiques - Télérama.fr

ピエール・アンリ邸の紹介ビデオ:仏語)

 

Dans la maison de Pierre Henry theatre du son voue a disparaitre 

(邸の現状と今後についての記事(仏語))

 

Ministre de la Culture Francaise Francoise Nyssen Anne Hidalgo Maire Paris Sauver la maison de Pierre Henry(アンリ邸の保全を求める署名(仏語))

 

【関連】

 

association-presquerien.hatenablog.com