リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

リュック・フェラーリ来日の頃(その3)  

 

 前号まで駆け足でフェラーリの初来日の頃の記憶をたどったが、既に述べたように打ち上げの席で新作の委嘱が為され、委嘱したからにはその新作を同じ「新しい世代の芸術祭」の主催によって日本で初演することが自動的に決定した。もちろん、僕としてはフェラーリのさらなる日本への紹介への尽力はやぶさかではないが、やっと大役を務め終えたと思った途端にまた次が控えていて、面喰らったというのも正直なところではある。初来日が2002年1月で、2度目の来日は2003年10月と、振り返ると実質1年9ヶ月準備期間があったわけだ。すべてが手探りだった初回に比べると、2回目なのである程度勝手がわかってきたこともあって、大きなトラブルもなく比較的スムーズにことが運んだような気もするのだが、前回できなかったことをいろいろ盛り込んだのでそれはそれでまた新しい体験も多かった。何より、初来日公演の制作を通してフェラーリとの信頼関係を築けたと思うので、前回以上に積極的に協力してもらえたということもあるし、同じことがフランス大使館の協力をいただく上でもいえた。

 

 前回できなかったことにもいろいろあるが、一つは、器楽作品の紹介を充実させること。前回の器楽のコンサートはほとんどピアノ曲ばかりだったので、アンサンブル作品を取り上げたいと元々思っていたのに加え、早々と上がってきたフェラーリの委嘱新作がアンサンブルと電子音響の作品だったので、これを初演するためにはアンサンブルが必須だったのである。この新作『パリー東京ーパリ』においては、フェラーリが日本で録音した現実音が随所に顔を出す。帰国してまもなく完成の知らせが来てその早さに驚いたので、よほど乗って作曲したようだ。そこで、アンサンブル・ノマドに協力をお願いすることにした。ノマドがそれ以前にフェラーリを取り上げていたかどうか、今記憶がさだかではないが、代表の佐藤紀雄さんがフェラーリに関心を持たれていることは知っていた。80年代に近藤譲氏がアンサンブル・ムジカ・プラクティカでフェラーリをいくつか取り上げていたわけで、佐藤さんといい、前回協力していただいた井上郷子さんといい、プラクティカでにフェラーリと出会ったのかもしれない。佐藤さんに相談したところ、この企画に大いに乗っていただき、ノマドの出演が決定した。前回リサイタルをやっていただいた中川賢一氏もノマドのメンバーなのだが、今回は彼は仕事が入っていて参加できなかった。

 

 もう一つは、晩年のフェラーリターンテーブルを使用した自作自演にも踏み出しており、そちらの側面にスポットを当てた企画もやりたいということで、大友良英さんに協力を依頼し、フェラーリと共演していただくことになった。このライブの制作は、前回もコンサートに日参してフェラーリへの関心も高く、大友さんとも懇意の野田茂則氏に一任した。大友さんのターンテーブル実演は僕もそれまでに何度も見ていたので、大友さんの参加が決まった時点でこの企画の成功は確信できた。結果的に、2回目の来日公演は『パリー東京ーパリ』委嘱新作の初演とフェラーリ×大友の2つが大きな柱になったと言っていいだろう。会場の六本木スーパーデラックスは満員で熱気に溢れていたが、今、現代音楽ファン以外の音楽好きにもフェラーリが認知されているのはこの大友さんとの共演があったことも大きいのではないか。フェラーリ自身、70年代以降即興の演奏家と一緒にやったりジャンルを越境してきた人なので、このような現代音楽のボーダーを越えた企画も取り込めたのは願ってもないことだった。メイン会場だった滝野川会館の音響の人(後述の小沢さんとは別人)が大友ファンで、彼はおそらくこの時に仕事としてフェラーリの音楽(と同時にフェラーリ本人とも)出会ったのだろう。その彼もスーパーデラックスのライブに来てくれたのだが、本当は自分の職場である滝野川会館でフェラーリ×大友を手がけたかったのではないかと思わないでもない。あるいは、仕事ではなく純粋に観客としてフェラーリ×大友を聴けてよかったと思っているだろうか。

 

 ボーダーレスといえば、これまで触れなかったが、初来日の時に続き、2回目の来日時も不失者のベーシスト、小沢靖さんに音響を担当していただいた。小沢さんとはそれまで面識はなかったのだが、ギタリストの今井和雄さんがフェラーリ大好きで、日本に呼ぶことを話したら大いに前向きになっていただき、今井さんとマージナル・コンソートの同士である小沢さんを紹介してもらったのだった。狙った訳ではないのだが、大友さんといい、ジャンル越境的な人材が分け隔てなく参入してくるところはフェラーリの企画らしくてよかったと、今振り返っても思う。その小沢さんはフェラーリが亡くなって数年後に逝去された。

 

 

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<リハーサル中のフェラーリと小沢靖、鈴木(滝野川会館)>

 

 その他に、テープ音楽のコンサートも、東京日仏学院のレクチャーコンサートを入れて3つフルに用意し、今はもうだいぶCD化されたが当時は聴ける機会のなかった作品をいくつも投入した。いうまでもなく、前回同様何より自分がフェラーリの未知の作品を聴きたかったからである。実はもう一つ、実現したかった企画があった。それはフェラーリのサウンド・インスタレーションの展示だ。その作品『思い出の循環』は図面まで見せてもらっていたのだが、ふさわしい場所が見つからなかったのか、予算のせいだったかで、結局実現しなかった。それがずっと心残りだったのだが、後年、フェラーリの没後に武蔵野美大でこの作品の展示が実現した時は感無量だった。

 

 フェラーリは前回同様フィールド・レコーディングに意欲を燃やしていたが、ある時、繁華街の呼び込みの声を録りたいというので、みなで連れ立って夜の歌舞伎町に繰り出したことがあった。はたから見ると、謎の外国人を含む怪しい集団が闊歩している風情だったろうが、あちこちの風俗店の前に立っている呼び込みの人は、何かの法律の縛りのせいか、意外と呼び込みを盛んにやっているというほどでもない。また、やっていたとしても、フェラーリがマイクを向けるともう呼び込みはやめて口をつぐんでしまうのだった。無理もない。お客になりそうには見えない、謎の白人のじいさんがマイクを向けてきたら、怪し過ぎて呼び込みどころじゃあるまい。最後の打ち上げの時、また調子に乗った代表の小内将人が勢いで委嘱を口にし、来年も来日公演を企画することになったらどうしようと内心思わないでもなかったが、それは杞憂に終わった。

 

 フェラーリはその2年後に世を去ってしまったので、すべて後付けで思うなら、その最晩年に2年連続で日本でそれなりにまとまった紹介ができて本当によかった。最初に知り合った頃、日本とは全く接点がなく、行ったこともないと語っていたフェラーリ。しかし来日以降、フェラーリと日本との接点は増え、ブリュンヒルドさんはフェラーリの死後も何度となく日本を訪れるようになった。状況は全く変わった。

 

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 <2003年来日時のフェラーリと鈴木(滝野川会館)>

 

 追記するなら、フェスティバル終了後、フェラーリ夫妻は今度こそ風邪をひかず無事京都観光を終えたが、その道中に関しては、僕は同行せず人に託したのでここでは語ることはできない。 (完)

 

鈴木治行(作曲家)

 

 

 

【合わせて読みたい】

 

【音ヲ遊ブ】フェラーリ会見記

 

【音ヲ遊ブ】フェラーリの「逸話的音楽」

 

(上記リンクは【音ヲ遊ブ】さんの「短期集中連載『Luc Ferrari』」リュック・フェラーリより紹介しています)

 

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