リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

ピエール・アンリ追悼 Pierre Henry(9, DEC, 1927 ー 5, Jul, 2017)

 

さる7月5日に、フランスの作曲家・ピエール・アンリが89歳の生涯を閉じました。ピエール・シェフェールとともにミュジック・コンクレートの父といわれ、現代音楽のみならずロックやテクノのアーティストにも大きな影響を及ぼした電子音響音楽の巨星。歴史上の偉人でありながら、老いてなお盛んに大作を送り出す精力的な創作活動は多くのファンを魅了し励まし続けていました。それだけに、音楽界は今、大きな支柱を失ったような深い悲しみに包まれています。

 

ピエール・アンリの家は12区にあります。メトロの駅からすぐのところにある、つたのからんだお屋敷です。彼はここで毎年、コンサートを行っていました。

 

入場券を手に門をくぐると中庭があります。電子回路や電子部品などを使った変わったオブジェが壁いっぱいに張り巡らされ、さながら不思議の国に迷い込んだような雰囲気に。ギャラリーのような展示作品というより、強烈な趣味を持つ面白い友だちが部屋に招いてくれたような親密な空気です。そこに流れている時間の深さを感じずにはいられません。

 

上着を預けて階下へ進みます。通路はそんなに広くありません。あのひげもじゃの巨体がここを往来するのは不便ではないのかしら、と失礼かつ余計な心配をしながらも、壁のオブジェや古い音響機器につい足を止めてしまいます。

 

そういえば、コンサート会場はどこでしょうか。

いいえ、コンサート会場はありません。

ここはピエール・アンリの家。地上階にサロン、上へ上がるとキッチンと書斎、さらに上がると書庫やピアノ室、トイレ、お風呂と、間取りは一般住宅そのものなのです。お客はそれぞれ、空いている部屋の空いている椅子へ案内されます。たとえばキッチン。ポスターやオブジェがところ狭しと飾られた螺旋階段を上ったところに、まずまずの広さのダイニングがあります。10席ほどの椅子に5個ほどのスピーカー、真ん中には録音用のマイク。ここにもケーブルや楽器の一部を使ったユニークなアートがコマゴマと置かれ、思わずアンリの頭の中ってこんな感じなの?とお茶目な想像も膨らみます。

 

隣の部屋をそっと覗くと、テープリールの機械やコンソールがたくさん並んだ「書斎」でコンサートの準備をする夫人の姿が。そしてその奥にはむくっとした白ひげの巨匠が一点を見つめて腰掛けています。いました!このお屋敷の主です。ここからどんなショーが始まるのか、彼が何をしでかすのか…期待は膨らむばかり。

 

ほどなくして明かりが消えると、音の渦がキッチンを満たします。さきほどの書斎から、全部屋に設置されたスピーカーに音を配当し、客はそれぞれの部屋で音を楽しむことができる、という仕掛けだったのです。そして、もしかしたら真ん中のマイクはコンサートの様子を生録音するためのものかもしれません。私たちの体験も、次の作品に使われてしまうのでしょうか。だとしたらなんという周到な罠でしょう。なんだか「注文の多い料理店」のお客になった気分です。さあさあ、おなかへおはいりください。しかし、アンリの大いなるおなかはなんと心地よいことでしょうか。ミュジック・コンクレート誕生の頃から、この人の情熱は全く変わることなく、勢い良く鷲掴みにされた音響を分厚いエネルギーに押し上げて空間を圧倒するのです。

 

1949年。最初のミュジック・コンクレートの大作「一人の男のための交響曲」はフランス国営放送内の「実験クラブ( Club d'Essai )」でアンリの手によって作られました(初演は1950年)。共作はピエール・シェフェール。実験クラブはアンリとシェフェールとの二人三脚でGRMという一大機関へと発展していきます。

 

1958年にGRMに参加したリュック・フェラーリが始めについた仕事はアンリの研修助手でした。それまで器楽の作曲ばかりしていたフェラーリはアンリのもとで多くのテープを聴き、モンタージュを覚えます。電子音響の作曲家として名のあるフェラーリですが、ミュジック・コンクレートに本格的に触れたのは「一人の男~」から9年も経った頃でした。

 

しかし、アンリはフェラーリが入局したこの年に、シェフェールと仲違いをしてスタジオを出てしまいます。

ピエール・シェフェールは「不平屋」、ピエール・アンリは「強情っぱり」とフランソワ・ベールが言うように、個性の強い二人がぶつかり合うのは無理もないかもしれません。

フェラーリも60年代の終わりにはシェフェールのもとを離れることになるわけですが、当時のアンリとシェフェールの決裂劇はそれよりもずっとセンセーショナルで激しいものでした。

「アンリは会議中に突然立ち上がり、シェフェールに一通の手紙を渡し、出て行ってしまいました」とフェラーリは回想します。「彼がシェフェールにこう言ったことを覚えています。『私は創作に対するあなたの態度や、教育に携わるあなたのやり方には反対です。私はあなたのすべてに反対なのです』と、そしてバン!出て行った。穴があいたようでした」。

 

アンリは自身の助手であったフェラーリがその後もシェフェールのスタジオに残ったことに少し不満があったようです。何故、フェラーリは僕の側につかなかったのだろうと。しかし、フェラーリは誰の味方にもなったつもりはなく、自分のために音の実験を続けるのみだと考えていました。

その後アンリは「APSOME(アプソム)」という自身のスタジオを作ることになります。フェラーリものちに自身のスタジオ「ポストビリッヒ」を作ることになりますが、そういった意味でもアンリという先輩の背中はフェラーリにとって決して小さなものではなかったのではないでしょうか。作風はまったく違いますが、1958年というひとときクロスしたスタジオでの二人の時間は、その後の電子音楽を大きく変えることになったことは間違いなさそうです。

 

ちなみにフェラーリは自宅で定期コンサートをするようなことはしませんでした(むしろ、門を出て、音を求めて旅に出かけるほうでした)が、フェラーリの自宅やスタジオはセンスあふれるオブジェやアートで埋め尽くされていて、招かれた者の想像力を掻き立てるアイデアが満載のインテリアとなっています。アンリのインテリアが重厚で騒がしいおもちゃ箱のようだとしたら、フェラーリのインテリアはもっと絵画的・造形的なモチーフが多く、おしゃれなアトリエといった風でしょうか。

 

Dans le studio, le mystère m’est indispensable.

部屋の中で、謎は欠かせない。(アンリ)

 

作曲家の部屋の中とは、作曲家のイマジネーションそのものなのかもしれません。

夜明けから、次の夜明けまで、謎だらけの、自分の脳みそみたいな部屋の中で、テープを回し続けていたのでしょう。

約70年前の、ミュジック・コンクレートの夜明けから。

ひっくり返されたおもちゃ箱から、もう新しい曲は生まれないのかと思うと、ただ残念でなりません。

 

今改めて彼の残したディスクを通してアンリの家の扉をノックすると、暴れ回らんばかりの濃厚な音のキャラクターが元気良く出迎えてくれるでしょう。音との出会いのその瞬間にざくざく切り取りコラージュされ、増幅し、捻じ曲げ、転がし、雷鳴のように轟く音たちは、いつでもアンリの家の住人なのです。

 

 

(渡辺愛 / 作曲家)

 

 

【参考:ピエール・アンリ邸の紹介と、今後の保全管理について】

 

Dans la maison studio de Pierre Henry - Musiques - Télérama.fr

ピエール・アンリ邸の紹介ビデオ:仏語)

 

Dans la maison de Pierre Henry theatre du son voue a disparaitre 

(邸の現状と今後についての記事(仏語))

 

Ministre de la Culture Francaise Francoise Nyssen Anne Hidalgo Maire Paris Sauver la maison de Pierre Henry(邸の保全を求める署名(仏語))