リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

【寄稿】 リュック・フェラーリ来日の頃 (その2) 

 

 前回に続いて2002年1月のフェラーリ初来日周辺のことを書いているが、既に15年前のことで、細部の記憶が曖昧な部分もあるのはご容赦願いたい。

 

 公的な機関にも協力を仰ぐ必要があり、フランス大使館にも連絡を取った。その時文化部担当だったエマニュエル・ド・モンガゾンさんに会いに行った時に驚いたのは、彼女が、こちらから説明しなくてもフェラーリの音楽を知っていたことであった。それもただ知っているだけでなく、彼のフランスでの立ち位置と今回日本に呼ぶことの意義までもわかっていた。簡単にいうと、フランスの現代音楽界には70年代にIRCAMを創設したブーレーズを頂点としたピラミッドがあって強い影響力を持っていたが、フェラーリやアペルギスなどはそのピラミッドの外部の一匹狼的な存在だった。フェラーリブーレーズの関係はよくは知らないが、ブーレーズはミュージック・コンクレートに否定的だった訳だし、自分の指揮でフェラーリを取り上げた形跡はなさそうなところから見て、フェラーリを評価していたり好意的だった感じはあまりしない(ちなみにシェフェールブーレーズは決裂し、憶測だがブーレーズから見てフェラーリは「シェフェール側」と思われていたかもしれない。実際はそうでもないのだが)。また、フェラーリの人を喰ったようなところとブーレーズの真面目さが相性いいとも思えない。その頃既に日本にはブーレーズ経由の作曲家は紹介されるルートはあったので、僕が今さらそうした作曲家を呼ぶまでもなく、そこから「外れた」作曲家こそ紹介したかった、その意義をモンガゾンさんは僕が説明するまでもなく理解していた。これは驚くべきことで、日本でいうとどこか海外の日本大使館の人が、武満徹のように誰でも知っている名前ではない、地道にオリジナルな活動をしている日本の音楽家を自前でリサーチしていることに相当する。

 

 そんな訳で、一も二もなく大使館からは全面的にフェーラーリ公演に協力していただけることとなった。折角なのでコンサートだけでなくシンポジウムもやることになったが、人選にあたり、いかにも当時の日本で現代音楽関連のイヴェントで出てきそうな(そして通り一遍のことを言いそうな)「専門家」は避け、フェラーリに積極的な関心を持ち、発言も期待できそうな人物に声をかけた。それまでも「ユリイカ」などの媒体を通してフェラーリのほとんど唯一の日本への情報の窓口のような存在だった椎名亮輔氏や、90年代にあるトークフェラーリを熱く語っていた大里俊晴氏、クリストフ・シャルル氏、五十嵐玄氏など。プログラムには解説だけでなく対談も入れようということで、90年代にアンサンブル・ムジカ・プラクティカやNHK-FMでもフェラーリ作品を取り上げてきた近藤譲氏と大里氏の対談を収録。

 

 そんなこんなで年も明け2002年1月、フェラーリ夫妻がついに来日した。これはこれまでにも何度か語ってきた話ではあるが、着いてすぐにフェラーリが録音機材を持って外に出かけたので同行したら、前をおしゃべりしながら歩いていた女子高生3人組を見るやいなや、音もなくすーっと近づいていって3人のすぐ後ろにつき、ピタリとマイクを向けながら一緒に歩き出した。あの時もし3人のうち誰かが後ろを振り向いて悲鳴でも上げたらどうなっていたかと今でも思う。フェラーリとしては、純粋に女性の日本語のおしゃべりの音響に惹かれただけなのだろうが。

 

 フェラーリは時間を見つけてはあちこちに録音機材を持って行って録音して回っていた。僕は同行しなかったが早朝の築地の市場にも出かけた。僕も音響的にフェラーリが興味を持つかもしれない場所には連れて行ってみたりしたが、一度ゲーセンの電子音のカオスの中に連れていってみた時には全くレコーダーを回さなかったので、音響が好みではなかったのだろう。スタッフの一人だった山本裕之(作曲家)が浅草に連れて行った時にはかなり録音していたようで、その時に録った縁日や呼び込みの声は後に『パリー東京ーパリ』や『不整脈=非リズム的なもの』の中で活用されることになる。

 

 もう一つ忘れられないのは、フェラーリが芸大で講演をした時のこと。夏田昌和(作曲家)の通訳でフェラーリが自作について話したのだが、自分の持って来たCDを足元に積み上げ、特に進行を前もって決めずその場の流れでかけたくなったものをかけていた。あるディスクを探す時に、フェラーリはなんと足元のCDの山を足でまさぐり出した。その行儀の悪さ!大家然とした作曲家ならそんなふるまいはしないだろう。まさに自由人という感じで、僕や大里さんが大ウケしたことは言うまでもない(『Strathoven』の茶目っ気を思い出した)。フェラーリほど権威主義からほど遠い作曲家もそうはいないが、そういうふるまいが決して下品にはならずに「決まってる」ところが育ちの良さなのだろう。

 

 音楽祭自体は、成功だったのではないだろうか。それまでディスクも出ておらず全く聴く手だてのなかった作品が多数、一挙に日本初演された(今ではもうかなりCD化されているが)。打ち上げの時に、調子に乗った代表の小内将人が後先考えず勢いで新作を委嘱してしまい、僕はまた翌年2度目のフェラーリ音楽祭を企画することになった。それは勿論すばらしいことなのだが、これでやっと肩の荷が降りたと思っていた矢先にまた自分に次の企画の重責がかぶさってきたのには面喰らった。夫妻はその後京都観光に向かったが、二人とも風邪をひいてしまって寝込んでいたのは残念だった。そのリベンジも翌年果たすことになる。(以下次号へ続く)

 

鈴木治行(作曲家)

 

 

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