リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

「フェラーリ地帯(ライン)」(第7回「スペインから来た男」)

 

 

全国二万五千人超のリュック・フェラーリファンのみなさま、こんばんは。

 

今日は久々に「フェラーリ地帯(ライン)」の第七回目、ラッキーセブンということで、リュック・フェラーリ、そしてブリュンヒルドフェラーリ夫妻の仕事を最も間近で見てきたともいえる方?をご紹介しましょう。

 

 

 

フェラーリ地帯(ライン)」はリュック・フェラーリの友人や知人、ご縁のある方や作品などにスポットをあて、順不同にじんわりと紹介していく企画です。

あくまで順不同の企画です。

また、専門とされている分野の方から見ればもの足らない感もあるとは思いますが、その点もまたご了承いただけたらと思います。

  

 

さて今回の

「音楽力〜リュック・フェラーリで人を楽しませる〜」

フェラーリ地帯(ライン)」で取り上げる方はこの方、Manoloさんです。

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スタジオ・ポストビリッヒに来られた方は誰もがこの異形の黒眼鏡の人形を忘れることができない、というくらいインパクトのあるお姿のManoloさんですが、彼こそ1972年以降現在に至るまで、リュック・フェラーリブリュンヒルドフェラーリの仕事ぶりをもっとも眺め、製作過程の作品をも聴いてきた人物であるといえるでしょう。

 

1972年以降、およそリュック・フェラーリの仕事場で撮られたものでManoloさんが映っていないものはないといってもいいかも知れません。それくらい印象の強いManoloさんですが、では一体彼はどのような経緯でパリにやってきたのでしょうか……。

 

……1972年の初夏、スペインでLuis de Pablo と José Luis Alexancoの二人のユニットThe group Aleaの企画により、Los Encuentros de Pamplonaというイベントが開催され、リュック・フェラーリ作品« Allo, ici la terre »(もしもし、こちら地球)(映像版)が招待されました。

 

その時、このイベントに出展していたEquipo Crónicaのアーティストが、リュック・フェラーリに対して、上演中の会場に彼らの人形を設置してもよいかと尋ねました。

リュック・フェラーリがその提案を喜んで受け入れたところ、彼らは会場の至る所に、くちひげをはやし、黒眼鏡をかけたスーツ姿の人形を設置し始めました。

彼らはすべて同じ姿かたちをしており、あるものは会場の席にまぎれこみ、あるものはトイレに腰掛け、そしてあるものはロビーの片隅にどっかりと座っていたのでした。

観客はその姿をおそれました。

 

なぜなら彼らの姿形は、観客にとってまさにフランコによる治安警察のイメージそのものだったからです。

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会場のあちこちに配された治安警察『みたいに見えるかもしれない』人形を、本物の治安警察がどんな気分で眺めていたかは(そして実際本物が紛れ込んで来ていたのかどうか)わかりませんが、ちょっぴり異様ともいえる雰囲気の中で« Allo, ici la terre »の上演が始まりました。

 

そして演奏が終盤を迎えたとき、突然観客の幾人かがこの人形達と踊り始め、それをきっかけにしたかのように会場はこの人形達を巻き込んだダンス会場と化したのです。

 

もちろんそれはただのダンスなどではありませんでした。

あっというまに人形のあるものは放り投げられ、あるものは蹴り倒され、あるものは砕かれました。それは長い間フランコの圧政下にあった観衆の一種の表現でもあり、また抵抗のひとつの形でもありました。

今でも彼の顔にはその時の瑕がはっきりと残っています。

 

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この時、2Fの映写室で« Allo, ici la terre »の映写を担当していたブリュンヒルド夫人の横で、この騒ぎを大笑いしながら眺めていた人物がいました。

この作曲家こそ、誰あろう、ジョン・ケージ

彼もまたこのイベントに招待されていた作曲家のひとりなのでした。

 

 

イベントが終わり、夫妻は彼らの人形の中から2体を選んでパリに持ち帰ることにしました。

一体は彼らのスタジオに、そしてもう一体はこの« Allo, ici la terre »の映像を撮影した写真家、Jean-Serge Bretonのところへ運ばれました。

 

 

 

夫妻のスタジオでブリュンヒルド夫人によってManoloと名付けられた彼はその後、ヴァンブの“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)の旗揚げにも参加し、そしてさらに「回路の詩神」協会の移転に伴ってアルフォールヴィルへと移り、そしてその後リュック・フェラーリとともに“La Muse en Circuit”(「回路の詩神」協会)からスタジオ・ポストビリッヒへと引っ越ししていきます。

 

2005年のリュック・フェラーリの没後も彼はスタジオ・ポストビリッヒにしっかりと腰を据え、アーカイブ作業や訪れるさまざまなアーティストの仕事を見守り続けています。

そしてポストビリッヒを訪れた人はみな、今や彼がみずみずしい伴侶を得ていることにも気づくでしょう。

 

 

 

Manoloは今日もスタジオ・ポストビリッヒの片隅に座り、世界中からやってくるアーティストやお客様をそのやや欠けた黒眼鏡の奥底でじっとみつめているのです。

 

 

 

Ephemere I & II

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Acousmatrix 3

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リュック・フェラーリ センチメンタル・テールズ──あるいは自伝としての芸術

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