読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

フランス現代音楽における重要な作曲家の一人である、リュック・フェラーリ(Luc Ferrari:1929~2005)に関する情報を主に日本語でお伝えします。プレスク・リヤン協会(Association Presque Rien)は彼の友人達によってパリで設立されました。現在もその精力的な活動の下で続々と彼の新しい作品や楽曲、映画、インスタレーションなどが上演されています。 なお、より詳しい情報は、associationpresquerien@gmail.comまでお問い合わせください

新作CD&DVD ”Symphonie Dechiree”(引き裂かれた交響曲)(後編)

全国2万5千人のリュック・フェラーリファンのみなさま、こんばんは。

 

前回より2回に分け、先日Ars Novaより発売されたLUC FERRARI作曲、PHILIPPE NAHON指揮、JACQUELINE CAUX監督によるCD&DVD”Symphonie Dechiree”(引き裂かれた交響曲)の紹介および椎名亮輔氏による付録の解説テクストの翻訳を掲載しています。

 

f:id:presquerien:20130706004814j:plain

 

この”Symphonie Dechiree”(引き裂かれた交響曲)のパンフレット(31p)の中には5ページ半に渡る椎名亮輔氏による解説があるのですが、残念なことに現在のところは日本語版発売の予定がないために、元々フランス語であった解説を日本語に訳していただきました。

ボリュームがあるために、前編と後編に分割して掲載しており、今日は後編をお届けします。

なお前回(前編)はこちらから。

 

新作CD ”Symphonie Dechiree”(引き裂かれた交響曲)(前編) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

 

 

(前回より続く)

『この作品は当初、17楽器のオーケストラ、1人の女優、1人の男優、そして1人の「照明クリエーター」のための、『引き裂かれた夕べ』という音楽劇として構想された。これが少なくとも1995年末までの状況であったことは、草稿から確認できる。それは、現在の形の《交響曲》とよく似た楽章構成を持っていたが、しかし、当時きちんと完成されていた2つの楽章(第1楽章と最終楽章)があるだけで(他の楽章は計画のみ)、インターリュードは全く存在しなかった。作曲者によれば、それは「エロティックなフィクション」であり、女優/男優のカップルがマイクが装着されたヘッドフォンを着け、非常に早いスピードで台詞を言い、その演技は大部分が視線によって為されるというものだった。現在の形の作品の中にも、この原案のドラマティックな性格は、いたるところで感じることができる。もはや俳優は存在しないが、その代わりに言わば演奏者一人一人が俳優となったのであり、それゆえ、フィリップ[ナオン、指揮者]は奏者たちの間の連帯感と共犯関係について語ったのだし、ブリュンヒルド[フェラーリ、作曲者の妻]は奏者たちがお互いに演奏をしているのを聴き合っている時に感じられる緊張感について語ったのだ、と思う。ここから、明瞭な物語がないにもかかわらず、一種のドラマトゥルギーが生まれる。あるいは、この音楽の持つある種の官能性が生まれるのだ。

「物語がない」?しかし、この《交響曲》を聴きながら、徐々に展開して行くある種の物語を私たちは、明瞭に感じるのではないだろうか。いや、この言い方は余り正確ではない。その「物語」は一直線に展開するものではなく、砕け散っている。私たちは、物語の断片の描く軌道を、ある時にはこちらへ、ある時にはあちらへ、というふうに辿って行かざるを得ないのである。ここにもまた、引き裂かれた感覚は明らかに存在している。

ここで我々は、リュックがよく用いてた「同語反復」の概念を見出す。アメリカのミニマリズムが登場する以前からすでに、リュック・フェラーリは反復の現象に興味を持っていた。しかしそれは、スティーヴ・ライヒフィリップ・グラスといったアメリカの作曲家たちとは、異なるやり方でだった。「同語反復」そのものが反復から成り立っている。しかし、リュックは、いくつかの反復のサイクルを、それぞれを少しずつずらして、重ね合わせるのである。その上、それぞれのサイクルは異なった長さを持つようになっている。その結果、音としての結果は、原則として同じ長さの同じサイクルを音楽家によって反復させる、アメリカの反復音楽よりも明らかに非常に複雑なものとなる。この「同語反復的」方法は、第2楽章〈オブジェの戯れ〉に、そして多少とも第4楽章〈引き裂かれた言葉〉、そして第7楽章〈ハダーフィールドの鐘〉に見出すことができる。このフェラーリ的同語反復においては、人はコミュニケーション不能の苦悩を味わう(「みんながずれていて、普通に意思疎通をすることができない」)が、時によって、偶然にも(奇跡的だ!)、2つのサイクルが同調するように見えるときがあり、一時的に安心することができる。第一、この「奇跡的」な感覚は、作曲家によって演出(すなわち楽譜に書き込まれている)さえされている。それは、第3楽章〈二重性〉においてで、打楽器とピアノが同時に全く異なった音楽を演奏しているが、ある一定の瞬間(「ほんの束の間」とフェラーリは書いている)彼らは、言わば「奇跡的に」一緒に演奏するのである。

私はこの作品の和声的枠組みについて語らないではおれない。なぜなら、それは、それぞれの楽章の展開につれて、余りにも巧みに構成されているのだ。第一、作曲者の出発点は、すでに見たように、第1楽章〈和声の侵入〉であった。すなわち、彼の関心は当初から「和声的」なものだったのだ。現代音楽において和声について語るのは非常に奇妙である、というのもその語法は基本的に無調だからだ。しかし、リュック・フェラーリの音楽は、それ自体もちろん今日の無調的語法に基礎を置いてはいるが、常にある種の和声的香りを漂わせている。和声はそこで、古典期あるいはロマン派の時代のそれとは全く異なったやり方で扱われている。それは言わば官能的なやり方、いやむしろ「内密な=親密な=私的な」やり方である。それゆえこの作曲家はこう言うのだ。「中心音への侵入。その中で、私たちは旅をし、観察し、その性質、細部、驚異に関心を持つのだ。次いで、私たちはそれが単純ではないことに気付く。それは仲間付き合いすなわち倍音によるのだけれど、それから私たちは、当初のつもりでは単音だけだったのに、そこにはなかったような、他の広がりにまで探検を拡張するのである」。

この第1楽章では、「当初の単音」はイ音と嬰ト音であり、それらが徐々にホ音と嬰ハ音に囲まれて行く。私たちははっきりと嬰ハ短調の和音を感じる。暗くドラマティックな調性であり、たとえば、ベートーヴェンの《月光ソナタ》作品27の2、ショパンの《スケルツォ》第3番やマーラーの《第5交響曲》に使われている。楽章が展開するにつれて非和声音が増えて行くが(たとえば、ニ音、本位へ音、変ロ音、さらには本位ハ音や本位ト音まで!)、嬰ハの基本的調性はどこかに留まっている。しかしその後、作曲者は、楽章によって、和声を(あるいは和声的香りを)非常に巧みなやり方で変化させる。図式的になってしまうが、以下のような表を作ることができるだろう。第1楽章:嬰ハ短調、第2楽章:ハ長調、第3楽章:イ長(短)調とへ長(短)調、第4楽章:調性なし(あるいはイ?)、第5楽章:変ト長調変ロ短調、第6楽章:へ、イ、ハ?、第7楽章:ハ/イ、第8楽章:始めは調性なしだが、終わりに行くに従って変ロ長(短)調。そしてこれは以下のように読める。すなわち、暗く悲劇的な始まり(1)、中立的な継続(2、3、4)、ラディカルな変化(5)、多少のカオス(6、7)、そしてそのカオスが静まって行くが、常に少々不安感が残る、というのもこの調性(変ロ)は、初めの調性(嬰ハ)と無関係ではないからだ(なぜなら、嬰ハは、変ニと異名同音であり、変ロ短調の第3音だから)。これこそ、リュック・フェラーリによって、きわめて巧みに語られる調性の物語なのである。

この稿を終わるにあたって、リュックが楽譜の最後に残した言葉について語りたい。楽譜最終頁、音楽が終わった後に、こう書かれている。「私は、ここで終わる……(1995年10月18日)」。そしてその下に「……私も……(1997年1月17日)」。謎めいた言葉だ。特に、普通は楽譜には、その音楽の提示(タイトルなど)や音楽的な指示以外には、言葉が書かれることがないだけになおさらだ。リュックの言葉は、何を提示するわけでもなく、指示するのでもない。フィリップ[ナオン]との話の中にもあったのだが、彼もまたこの言葉が何を意味するのかを自問したと言う。実は、草稿を見てみると、作曲者は当初はこれらの言葉を他のメモリー音と同様に録音しようとしていたらしい。草稿にはこうある。「LF:『わ、わたしは[ママ]、ここで止まる[ママ]……』、女性の声、英語で『ここで終わりますか[ママ]。私も。』(Are you stopping here ? Me too)[丸括弧の中は鉛筆で書き加えられている]」。ここで私は彼の《非リズム的なもの=不整脈》の最後を思い起さずにはいられない。

《非リズム的なもの》は、2003年に作曲された、彼の最後の電子音響音楽作品である。彼自身の不整脈の発作の経験を扱っている。心電図モニタの音、外の街路の音、店舗の音、子どもたちのたてる音や声、鐘の音、ピアノの音、打楽器の音、これらの音と共に、私たちは、冷たい病院の廊下に2時間も放置された患者の脳裏に浮かんでは消える、音響の記憶の流れを辿る。そして最後に、日本の思い出(居酒屋?の店員の大声「ありがとうございました!」)の後、LFが呟くのが聞こえる。「さあ、じゃあ、もうやめるよ」。

実際、現代音楽、特に電子音楽においては、曲の終わりを提示するのはかなり難しい。なぜなら、もはや古典的形式、全ての人に認められ、受け入れられていた、伝統的図式などないのだから。今日の作曲家は、毎回、彼自身の全体構造の内的論理を発明しなければならないのだ。リュックは、音楽を終わらせるのに最も直接的で、最も無造作な(従って最も驚くべき)方法を発明した。すなわち、「これで終わり」と直接に言葉で宣言するのである。彼はこの方法を《ファーウエスト・ニュース3》でも用いている。

《引き裂かれた交響曲》でも、リュックはまず、この終わりの方法を考えたのだ。しかしその後、考えを変えた。その言葉を印刷された楽譜の中だけに(だから、それは聞こえない)残したのである。こうしてこの《交響曲》は「未完成」となった。彼はこう説明する。「そして最終的に、この大きな交響曲を終わりのないままにしておく……。これこそ、まさにだ」。倒錯的? 『プチ・ロベール仏語辞典』で「倒錯的」を調べてみると、こうあった。「1.悪事に走りやすいこと、悪事をすることを喜んだり、それを促したりする……。4.[名詞]基本的本能から逸脱している人、自発的に背徳的で、非社会的な行為を行う人」。「逸脱」という言葉は、作曲家リュック・フェラーリの「混乱した軌跡」をかなりうまく定義している。そして、とりわけ、この交響曲はまず第一に「全ての純粋さに抗して」おり、「全てのラシズム、ナショナリズムへの反抗であり、全般的なやり方で立ち上がる」ものだったはずだ。こう言うことで、リュックは、モラルや社会に対する今日の順応主義に対して、明確に「否」と宣言しているのである。

それでは、なぜ彼はこれらの言葉を、録音せず、聞こえないままに置いておいたのだろうか。《非リズム的なもの》や他の場合と《交響曲》の場合がいかに似通って見えようとも、これらの間にわずかな違いがあることを見落としてはならない。それは、2つの日付(1995年10月18日と1997年1月17日)の存在である。これら2つの言葉、言わばこれら2人のリュックの間には、およそ一年半の日付の違いがあるのだ。私には彼がこれらの日付を絶対に刻印しておきたかったように思える。これらは《交響曲》作曲の始まりと終わりには正確には対応していない。これらの日付は何を意味するのだろうか。謎だ……。こうして《引き裂かれた交響曲》は終わる(あるいは終わらない)……。

 

 

                                                 椎名 亮輔 』

 

いかがでしたか?

このテクストがちょっとでもあなたの心にひっかかって、LUC FERRARIの曲に興味を持っていただけたらな、と思います。

よろしくお願いします。

 

 

【関連過去記事】

新作CD ”Symphonie Dechiree”(引き裂かれた交響曲)(前編) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

あなたの街のリュック・フェラーリ(K2レコード・大阪) - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

レコード発売のお知らせ - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)

 

新作CD『Programme Commun』のお知らせ - リュック・フェラーリの『プレスク・リヤン協会』(簡易日本語版)